■「主語、述語」概念を日本語文法にどうあてはめるべきか:篠沢秀夫『フランス三昧』から

       

1 「英文法」をモデルに作られた国文法

篠沢秀夫の『フランス三昧』には、日本語の文法についての問題点も記されています。[文法というと頭が痛くなる。日本人に多い反応だ。それというのも「国文法」というものは明治時代に「英文法」をモデルに作られたからである](p.100)。

一番の問題点について、篠沢は次のように指摘しています。[主語、述語という概念をあてはめる。それが極端になると「日本語は変だ」という理屈まで出てくる](p.100)のです。日本語では結局のところ、主語概念の統一的な理解ができなくなっています。

日本語がヘンだという主張は極端でしたから、もはや言われないでしょう。しかし日本語文法が使えないという認識は定着した感があります。主語を廃止して、それで主題を代わりに持ち出してきても、使える文法になるはずはありません。

        

2 主語の強調

篠沢が例示しているのは、もはや古い事例でしょう。[レストランで注文を聞かれて「私は魚だ」と言うのを英語に直訳すると「アイ・アム・フィッシュ」となる、だから日本語は変だ、というのだ](p.101)。これをどう説明するか、あいかわらずの問題です。

篠沢は[この「私は」を主語と固く誤解していることからはじまる。これは「私については」という「主語の強調」だ](p.101)としています。いまの日本語文法で言えば、これは「は」接続だから、主語でなくて主題であるということになるのでしょう。

篠沢はこの表現を[ヨーロッパ語にもある。英語の「アズ・フォー・ミー」とかフランス語の「カンタ・モワ」で、こういう表現の後にはいきなり名詞要素を持ってきてかまわない。「私は魚だ」は少しもヘンではない](p.101)ということになります。

つまりは主語のない文だということです。「私は魚だ」は話し言葉ですから、書き言葉と違います。話し言葉を重要素材にして文法を組み立てていたら、おかしなことになります。ヨーロッパ語でも、話し言葉では主語なしの形式が出てくるということです。

     

3 話し言葉における主語の欠落

篠沢の主張は、この「私は」とは主語の強調であり、「私については」のことだということでした。そうすると、「私については、魚だ」となります。いまの日本語の文法でも、これでおかしくないというはずです。日本語には主語は不要だからということでしょう。

ところが篠沢の言うのは、少し違います。日本語に、英文法そのままの[主語、述語という概念をあてはめる]ことには無理があるということでした。主語というのは、英文法の場合ならこういう概念、日本語ではこういう概念という違いがあるということです。

書き言葉と違って、話し言葉ですから、日本語だけでなくて英語にもフランス語にも主語を言わない形式があります。この点は同じです。英語の主語概念はこうだ、日本語にはその概念の主語がない、日本語には主語がない…というのは極端な話だということです。

     

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