■現代の文章:日本語文法講義概要その2 第28回「センテンスの中核となる要素」

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1 述語の品詞

述語を考えるとき、述語の品詞をもとに「名詞文・形容詞文・動詞文」に分ける考え方があります。述語と呼ばれる要素には、中核となる言葉が存在しているという発想です。述語が日本語の中心的存在であり、さらにその中核の言葉があるということになります。

述語の中核となるものの品詞は「名詞・形容詞・動詞」があると考えると、その後ろに様々な要素が付け加わるという考えになっていったのでしょう。「ボイス」「アスペクト」「テンス」などの要素を付加した述語が形成されるという考えになります。

こうやって要素の分類をしていけば、述語の分析にはなるかもしれませんが、日本語の文を構成する基礎概念として不安定なものになりかねません。モダニティ・ムードというものは述語に付加された要素だとみなすことになるなど、違和感があります。

しかし一番問題なのは、品詞で述語を分類する発想を取り入れたことでした。これで日本語の基礎概念としては使えなくなった、あるいは使いにくくなったと思います。述語を中核の言葉の品詞で考えることは、読み書きをするときの感覚的な発想とは合致しません。

      

2 文末の「用言止め」

私たちは、文を終えるときの形を身に着けています。終止形という言い方もなされますし、そういう形があります。用言ならば、活用がありますので、文を終える形にする必要があるということです。こうした文を終える形を取る点で、共通性があります。

三上章が『現代語法序説』で[コプラ動詞を必要とする点で、純粋さを失った名詞文]と言っていました(p.74)が、日本語の場合であれば、名詞が文末に来ることはありません。すべて文末は、終止形になります。名詞で文が終わることは、まれな例外でしかないのです。

まれな例外であるからこそ、私たちは、あえてそういう形式に「体言止め」という名前をつけて、例外であることを感じています。通常の形式ならば、いわば「用言止め」になっていなくてはいけないのです。文末を用言止めにする原則が重要になります。

日本語の場合、文末という定位置に、終止形の体言を置くことによって、センテンスを終えるのです。センテンスを終えることによって、文の意味内容が確定します。文末に置かれる内容は、センテンスの主体に関する叙述になっているのです。

      

3 文末の機能・内容・形式

日本語の文末には「機能」的にも、「内容」的にも、「形式」の面からも、文末になるための要件があります。こうした共通性があるのです。述語という概念とは違った発想で見ていかなくてはなりません。日本語のセンテンスの文末について整理しておきましょう。

【文末の機能】
(1) センテンスを終える機能
(2) センテンスの意味を確定する機能

【文末の叙述内容】
(1) センテンスの主体を対象とした叙述
(2) 文末を見れば、主体概念がある程度絞り込まれる叙述

【文末の形式】
(1) 用言の終止形で終わる語句
(2) 例外:①体言止め、②最後に「ね/よ」などの終助詞が接続する場合

「私です」とあれば、用言の終止形が最後に接続していますから、私たちは文末だと苦もなくわかります。終止形というのは、日本語を母語とする人にとっては、直感的にわかる形式です。その結果、センテンスが終わり、文が次へと流れるのが認識できます。

文末には、主体に関する叙述内容が置かれているのです。文末という固定位置に置かれるために、主体が判別しやすい構造になっています。対応する主体がわかる場合、あえて主体を記述する必要はありません。わかるのに記述する場合、主体の強調になります。

日本語のこうした構造から当然のこととして、読み書きする人に、文末の主体がわかるようになっていなくてはなりません。主体の共通認識があるということが、文の伝達における前提条件となっています。日本語では、主体が特別な要素となっているのです。

      

4 明確に決まる主体概念

「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」のうち、文末の「どうした」を見れば、誰かの行為であると推定できます。あるいは人間でないかもしれません。文をたどれば、主体が記述されていなくても、わかるでしょう。わからなければ、文が不適切なのです。

文末を見れば、主体が明確になります。あれかもしれないとか、これかもしれないということはありません。主体となるのは、「誰・何・どこ・いつ」を表す体言です。文末を見たり、文中の「は/が」などの助詞が目印になって、判別は容易なことでしょう。

「主体は体言、文末は用言」という原則が成り立ちます。今まで見てきた通説的見解のように、助詞「は」と「が」を判別のために利用する必要はないのです。河野六郎が、日本語を単肢言語と表現しました。主体の記述が不可欠でない言語だということです。

      

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