■陳舜臣の歴史の見方:『歴史から今なにを学ぶか』から

     

1 臨床例・裁判の判例としての歴史

論語のすぐれた入門書である『論語抄』を書いた陳舜臣が、『歴史から今なにを学ぶか』でも、優れた歴史観を示しています。この本を再び手に取ったのは、『論語抄』からの連想でした。この本の最初に置かれた渡部昇一の話については、すでに書いています。

陳舜臣の話もすばらしいものでした。「歴史から今なにを学ぶか」というテーマの前提には、歴史から学ぶものがあるという認識があります。当然でしょう。そうなると、「今」と「なにを」が問題になると、陳はこのことを最初に指摘して話をすすめています。

[まず記録されたものを歴史というふうに考え]た場合、いわば[医者でいう臨床例][裁判の判例]になります。これを現在と比べてみることは役立つでしょう。こうやって歴史から学ぶということが可能になるはずです。しかし気をつけるべき点があります。

      

2 書かれた歴史を信用しない

歴史になっていることは、つまりは終結していることです。陳は例をあげます。劉邦が天下を取った後、どうして天下が取れたのかを考えることはできるでしょう。[しかし、天下を取る過程において、彼にそういうことはわかっていなかったと思うのです](P.95)。

過去を振り返ることは、当事者の立場で考えるのとは違います。その時点でわかっていたことによって考えるしかありません。歴史を見る側も[残された歴史というのは記録されたもので、一方には記録されない歴史も大量にあ]ると知るべきでしょう(P.97)。

[歴史を読む一つの態度としまして、書かれた歴史をあまり信用しない][他の人の言い分もあったのではないかということを、いつも念頭に置いて読みたい](P.98)ということになります。それでも[勝った方の言い分が大量に入って]来るのです(P.99)。 

       

3 歴史の中で演技する人

陳はインドと中国を比較しています。インドには古い記録があるものの、いつのことであったかが、わからないというのです。宗教に学ぶことが大切で、何年何月なんて枝葉末節であると考えます。反対に中国は何でも全部記録しておく[記録マニア](P.107)です。

こうなると中国では[歴史の中で演技する人]が出てきます。[自分の志を後世に伝えるという意識を、中国人は非常に強く持っていた](P.109)のです。この点、日本の場合、咀嚼して消化する点に特徴があります。よいと思うものは保存しておくのです。

中国では物事は[すぐに滅びてしまいます](P.121)。[日本のように物が残らないので、記録だけに残ったのがいっぱいあります](P.125)。こうした影響もあって、[何でもこれは過去に記録があるはずだというふうに考えて調べる](P.126)癖があるのです。

こうした傾向があると、新しいものを取り入れるのに抵抗が多くなります。その結果、[無理をすると王朝の命が短い][無理をしないと天下が統一できないという矛盾](P.135)が生じるのです。これだけでも知っておくと、歴史を読むときに役立ちます。

     

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