■一流の学者の気楽に書いた本の効用

       

1 対象者をどこにおいているのか

たまたまブログに最近書いたことが、響きあってきました。偶然のことです。小松英雄の『日本語を動的にとらえる』にあった一節に、[専門家の話を理解するにはそれなりの準備が必要であるが、素人論は素人によくわかる]とありました。

昨日ふれた木田元は『哲学以外』で、小松の言葉とは少しニュアンスの違った言い方をしています。[哲学というのは私には、オリンピックではないが永遠のアマチュアリズムを本領とするもののように思われる]。プロであるという前提の話でしょう。

木田の記している文章の前には、[私も若い頃は、学問一途に生きております、飯をくうだの酒を呑むだのそんな卑俗なことは考えたこともありませんといわんばかりの論文を書いていた]と書かれています。[論文のようなものはそれでいい」とのこと。

どうやら両者が文章を書いていたときに、対象としている段階と、それを表現する段階に違いがあったようです。どこにアクセントをおいて書いているのかの違いでしょう。それが本全体のトーンの違いにもなっています。両者の姿勢の違いと言うべきものです。

     

2 素人議論がでやすい日本語論

小松英雄が素人議論を一刀両断にしたのは、[日本語を日本民族と不可分にとらえた言語学の素人による日本語論が次々刊行されたから]でした。[このような嘆かわしい状態]を心配したためだと記しています。いくらなんでもということでしょう。

哲学と日本語では、この点で違いがあります。私たちは簡単に哲学の本を読むことができませんし、哲学を論じることも出来ません。日本語の場合、素人が入り込める余地がおおいにあります。普段使っている日本語ですから、思いつきも出てくるでしょう。

一方で小松は[みずからを日本語研究の玄人と位置づけて素人論を批判し]たのではありません。[自分の識見が正真正銘の言語研究者の足元にも及ばないことを、その道の碩学に親しく接した体験があるので骨身にしみて感じている]点で素人ではないのです。

正真正銘の言語研究者とは[今は亡きお二人の文献学者・言語学者、河野六郎先生と亀井孝先生]であると「あとがき」で小松は書いています。こういうレベルから見ると、学者の書くものもとても[グローバルの水準]ではないということになるのでしょう。

     

3 一流学者の気楽な本の効用

小松英雄がズブの素人ではない、[専門家の話を理解する]レベルを想定していたのに対して、『哲学以外』の木田元は[一般の読者を対象にした本を書く]という意識があります。これはご本人にも気楽なところがあったのでしょう。その点を忘れていました。

小松英雄の本は、これからも詰めて考えないといけない小松の研究成果を盛りこんだ本だと言えます。木田元の場合、気楽な立場で書いたからこそ、多少粗いところがあったとしても、すぐれた一筆書きができたのでしょう。素人には真似のできないことです。

改めて思ったことは、一流の学者の本格的な本と、一流の学者の気軽な本の両方が必要だということでした。全体像を知るためには、かえって気楽な本が役立ちます。それがないと、なかなか本格的な本は読めません。一流の学者の気楽な本の効用といえます。

       

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