■見えるものがあるということ:画家の評価

      

1 一番仕事のできない典型

ここ数週間、展覧会の準備のお手伝いをしていました。大きな展覧会ですので、相当な準備が必要になります。数か月前から、何度となく確認をしてきました。大丈夫ということでしたので、そのつもりでいたのです。1日来てくれれば済むということでした。

しかし先月になって、一度来てと言われて確認したところ、進捗がほぼゼロの状況でした。あれも出したい、これも出そうかなあという確認だけしかしていません。具体的になにも動き出していませんから、どのくらいかかるのかのチェックからはじまりました。

普通に行ったら、もはや間に合いませんから、これは大変なことです。さすがに画家も、どうすればいいだろうかと言いだしました。ビジネス人に、ありのままを話したら、ありえないと否定されるたぐいの話でしょう。一番仕事のできない人の典型です。

ここまでひどい例は、あまりないかもしれませんが、絵を描く人の中には、この種の行動様式をとる人がいます。本人たちに、それが致命的だという自覚はありません。実際、手伝う人がいれば、致命的ではないのでしょう。問題は手伝う人がいるかどうかなのです。

     

2 成果主義による評価

ビジネス人に、この種の話をしただけで、うんざりするはずですが、そこからが問題になります。こういう人の場合、効率よく仕事をしませんから、仕事量もわずかです。作品数が少ないということになります。同業の画家からも、描けないねとみなされるはずです。

しかし、それが決定的な評価にならないのは当然でしょう。枚数が多くても、レベルを超える作品が描けなくては意味がありません。逆に言えば、何枚かの高いレベルの作品があれば、十分なのです。画家としての評価は、出来た作品で決まります。

ビジネス人も、成果主義を当然と感じるでしょう。成果を見て、それが評価になります。画家の評価は、作品で決まるのは当然だと感じるはずです。しかしビジネスの評価のように数字に換算しての評価はできません。画家の評価はどうなっているのでしょうか。

     

3 見えるものがすべて

繰り返しものを見た人なら、ものの価値に対してかなり的確な評価が下せます。一目でその作品の高さはわかるでしょう。当然、そこにはブレがあるはずですが、ある期間、何人かの人たちが評価したなら、それが実績になってもおかしくありません。

ビジネスでの評価が客観的だと言ったところで、しょせん数字です。実態とのカイ離はあります。客観的ではありえない絵の評価が、それと比べて不公平とばかりは言えません。絵には見えるものがあるという圧倒的に有利な条件があります。

絵の場合、ほとんど見えるものが全てです。背景のストーリーは、あくまで参考でしかありません。感覚で判断するにしても、見えるものがあるならば、見る人のレベル、評価する人数、評価の期間を水準以上にすれば、安定的な評価が可能だと言えるでしょう。

なされた成果に対する評価を考えるときに、その評価対象が見えるものであるかどうかは、かなり大切なことです。見える形に出来ないかという発想、見えるものがあるかどうかということが、評価をするときに重要になります。ビジネスでも大切でしょう。

   

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