■連載第11回「規範が必要な理由」の概要 現代の文章: 日本語文法講義
1 三上章『日本語の論理』
一番忙しかった時期が過ぎたようです。連載を載せるのが遅くなってしまいました。おもしろいもので、当初考えていたものとは少し違ったものになっています。次回に書くはずのものの前に、やはりこれを入れておこうかと思いました。また行ったり来たりです。
規範というものが必要な理由を、三上章の『日本語の論理』という本の事例を使って考えてみました。三上は天才とも言われた人です。あえて言及するだけの内容のある本でした。しかし、全く賛成できませんでした。基本的な考え方が違いすぎるのです。
三上は、たくさんの事例のある特殊な表現について、日本語ではこういう風になっていると説明しようとしました。たしかに現在でも通じるかもしれませんが、もはやほとんど使われない例文になっています。1963年の本ですから、それは仕方ないことでしょう。
2 表現形式の事例とルール化
問題なのは、三上が「日本語では」という言い方で説明してしまっていることです。「こういう形式があるのだから、こうなるのだ」という書きかたでした。事例の表現を三上自身がよろしくないと思っていたにもかかわらずです。具体的に見てみましょう。
▼かごに半紙を敷いて③を体裁よく盛りセロリ―の葉を三か所ほど添え、好みのソースで召し上がります。
三上章『日本語の論理』くろしお出版 p.32
この表現について三上は、[「体裁よく盛って召し上がる」とは何ごとか!]と記しています。おかしな表現です。しかし三上は[例文は吐き捨てるほどあり、特徴も際立っている体格型であるが、文法教科書は全然それに気づいていない](p.33)と書いています。
つまり、おかしいと感じても、そういう例があるのだから、この形式を文法項目として扱うべきだということなのでしょう。日本語はもはや完成していて、好ましくない言い方にみえても、ルール化していいのだということなのでしょうか。おかしなことです。
3 「論理性・合理性・的確性・効率性」という規範
日本語が簡単に成熟できないということは、今までも見てきたことでした。岡田英弘は『歴史とはなにか』で、日本が近代化するのに恵まれた条件だった点を記した上で、[日本の近代化にとって、いちばん大変だったのは、この国語の問題だ]と記しています。
▼明治の初めの日本人は、英語やフランス語やドイツ語を直訳して、ヨーロッパ語で表現されることがらはなんでも、日本語でも表現できるようにしようと努力した。 p.187 『歴史とはなにか』
これは大切な指摘だと思います。近代的な言語で表現できている内容が、すべて的確に日本語で表現できるようになったら、近代的な言語になるということです。「表現できる」というときに、「簡潔で的確な形式で表現できる」という条件が課されます。
そのためには「語彙」と「文体」の問題をクリアしなくてはなりません。近代的な日本語の文章形式が成熟する過程で、まだ不十分な点があったとしても仕方ないでしょう。成熟には「論理性・合理性・的確性・効率性」といった規範が必要でした。いまも必要です。