■連載7回目の概要 現代の文章:日本語文法講義

    

1 蘭学者の大きかった役割

連載7回目をアップしました。今回は文法からかなり離れています。文法に先立つ話が中心です。まずなぜ日本が大あわてで変わろうとしたのか、アヘン戦争の影響が大きかったというのはお聞きになったことがあるでしょう。西欧列強の登場です。

東アジアでは、この危機的状況をあまり理解されなかったようでした。さいわい日本ではすぐに対応できたのです。開国に踏み切りました。なぜこうした点感が可能だったかについて、宮崎市定は『宮崎市定全集18』の自跋とよぶあとがきで記しています。

▼その中にあって、ただひとり日本だけは、現実の事態を正しく把握する眼力を持っていた。そしてこの方向に国論を導いた功労者としては、数にしては多からざる一群の蘭学者たちを挙げるべきであった。アジア広しと雖も、日本の蘭学者の如き存在は、他国においては遂に類を見ざるものであった。 『宮崎市定全集』18巻 p.441

蘭学のおかげでした。語学が日本の危機を救ったのです。しかし皮肉なことに、オランダ語がわかったために、オランダ語の限界にも気がつきました。1858年には安政の五か国条約が結ばれてオランダが貿易を独占する時代が終わり、英語の時代になってきます。

     

2 漢字2字で作られた新しい漢語

福沢諭吉は横浜に1859年に出かけて、オランダ語がもはや使われないことに落胆しました。ところがオランダ語をやっていたのは無駄ではありませんでした。英語が容易に身につけられたのです。福沢は、はやくも1860年には咸臨丸でアメリカに出かけています。

ここで面白いことは、[理学上のことについてはすこしも肝をつぶすということはなかったが、一方の社会上のことについては全く方角がつかなかった](『福翁自伝』)ということです。西欧の近代的な諸概念の意味が解りませんでした。その理解に苦労したのです。

それらをどう理解するか、理解したものをどう翻訳したらよいのか、これが問題でした。亀井孝は[これらの諸概念は、ほとんどといっていいくらい、漢字2字で作られた新しい漢語に翻訳された](『日本列島の言語』「日本語(歴史)」)と指摘しています。

漢語は日本人にとって、大和言葉と違って情的な価値がまとわりつきません。無色なのです。そのおかげで的確な訳語をつくることができました。その結果として、日本人が作り上げた漢語はその後、東アジア各国の近代化の過程で取り入れられて普及していきます。

     

3 日本語自体を変えようというコンセンサス

西欧の近代的な諸概念を日本語に翻訳できたことは大きなことでした。日本語をやめて英語にせよという、いまから見れば暴論も、明治はじめには簡単に否定できない感じがあったようです。しかし英語を国語にする考えは、明治20年頃には捨て去られています。

明治18(1883)年にメッケルが陸軍に招聘されました。メッケルが「軍隊のやりとりの文章は簡潔で的確でなければならない。日本語はそういう文章なのか」と問うたと、司馬遼太郎は講演で語っています(『司馬遼太郎全講演[2]』 p.388)。

この頃から日本語自体を変えようというコンセンサスが指導層には出来たようです。新しい用語を取り入れていくことによって、日本語は大きく変わることになります。このプロセスには、英文法の成立と類似の点がありそうです。それを次回に書けたらと思います。

     

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