■日本語の構造を決める「意味概念」:品詞よりも優先すべきもの

     

1 一言で表現できない概念

私たちは文章を読み書きするときに、意識せずに案外めんどうなことを自然に処理しているようです。「ある」と「いる」の使い分けを聞いてみると、たいていの人はどういう言い方にしたらよいかと戸惑いながら、使い分けできていることがわかります。

非生物のときには「ある」が接続し、生物のときには「いる」が接続するといえば、それは違うと気づくことでしょう。たとえば樹には「ある」が接続しますが、非生物ではありません。一言で表現できる用語がなかなか思いつかなくて、戸惑うはずです。

しかし自ら動かないものには「ある」が接続し、自ら動くものには「いる」が接続するということは、当然わかっているのです。日本語で「誰」を使うとき、人に限らず自ら動くものを意識していることもわかってきます。案外めんどうだとも言えるでしょう。

      

2 「ある」と「いる」の品詞の違い

「ある・いる」の場合、その否定形も問題になります。「ある」の否定は「ない」ですし、「いる」の否定は「いない」であることは問題になりません。だから「公園に砂場がある」の否定が「公園に砂場がない」となることは当然のこととされます。

「公園に砂場がある」と「公園に砂場がない」とは、同じ構造の文といえるでしょう。「公園に砂場が」までは同じですし、そのあと肯定と否定の文末が来ているところが違うだけです。同じ構造と考えるのが素直なのですが、問題がないわけではありません。

「ある」は存在を表します。「ない」は非存在を表します。意味上の対比はクリアです。しかし品詞になると両者に違いがでてきます。「ある」は動詞、「ない」は形容詞です。
したがって例文の文末が「ある」なら動詞文、「ない」なら形容詞文になります。

存在が持続しているのですから、「ある」は動詞なのでしょう。ヘンではありません。「ない」の場合、存在しない状態を示している点で静的です。したがって、「ない」が形容詞であることも問題ないでしょう。そうなると、何が問題なのでしょうか。

      

3 品詞よりも上位概念とすべき「意味内容」

私たちが文の構造を把握するときの自然な思考と比べて、文末部分にある述語の品詞をもとに、日本語の文構造を3つに大別する発想がおかしいのです。述語の品詞を見て、名詞文、動詞文、形容詞文という分類をしたところで、文の構造は見えてきません。

品詞に基づいた構文の分類はナンセンスなものです。「ある」の品詞が動詞だから「公園に砂場がある」は動詞文、「ない」の品詞が形容詞だから「公園に砂場がない」は形容詞文です。だから両者は文構造が違います…。こんな説明では、役に立たないのです。

日本語は文末が大切な言語です。文末が「…ではない」と結ばれていたら、それまでの記述がひっくり返ります。ただ、そこで大切なのは意味概念の方です。他の言語でも同様でしょうが、日本語の場合も、品詞に基づいて体系が作られているわけではありません。

日本語の場合、とくに品詞の概念に頼れません。意味内容を表す概念から、2つの例文は自ら動かないものの存在を表す文と、非存在を表す文であって、同じ構造の文だと言うべきでしょう。品詞よりも「存在」という意味内容が上位概念になるということです。