■学校文法がなぜなくならないのか:現代の日本語文法の基礎 (その2)

    

4 説明不足の学校文法

学校文法の問題点は、文末の主体になっている言葉を主語だと言わずに、北原保雄の説明している通り、[主語は、「何々は(が)どうする。」「何々は(が)どんなだ。」「何々は(が)何々だ。」などの「何々は(が)」にあたるもの]と説明している点にあります。

こうした説明では、学校文法が形式文法だとみえるのでしょう。しかし北原の説明の通りで、[動作の主体ではない]ものは主語にはなりません。つまり[意味の側面を考慮に入れている]のです。そうすることで、学校文法が補強されることになりました。

北原は学校文法の定義の不十分さを補強する代わりに、その不十分さを形式文法であることの根拠にしています。「文末の主体が主語である」と簡潔に再定義すれば、北原のような基礎的な間違いをしなくて済みます。北原が例示した3つの文を見てみましょう。

「私が 好きだ」「リンゴが 好きだ」「発表が 終わった」について、「私が・リンゴが・発表が」は、学校文法での主語だと北原は言います。しかし文末の主体を主語とするなら、「リンゴが 好きだ」の主語は「リンゴが」ではありません。人物が主体です。

     

5 事例に適合させるための工夫

学校文法には、主語の明確な定義がありません。体系化されずに、形式的に説明するだけです。しかしそれだから形式文法だとは言えません。具体事例を説明するときに妥当な結果になるように、主語概念に新たな要件を加えることで、運用してきたのでした。

学校文法には厳密な用語の定義がなくて、説明不足です。それを補強しながら、やりくりしてきました。北原は[意味の側面を考慮]することを良しとせずに、[形式を重視し][形式を軽視し]ないようにというのですが、それは学校文法とは違う方向のものです。

小学校2年か3年の国語の教科書に主語が出てきて以降、明確な定義もせずに、なんとかやりくりしながら運用していく文法でした。具体的な事例に適合する工夫をする過程で、北原が示したように[動作の主体]という要件が事実上、加わったというべきでしょう。

     

6 さえない学校文法の代替案

学校文法には体系性がありません。直感的で素朴主義の文法です。主語につく「は・が」を目印にして、それを主語だと説明するのですから、形式を重視しています。しかし形式だけでは妥当な結果になりませんから、要件を付加してやりくりしたのです。

こうした学校文法におけるやりくりも、文の意味を読み解くのに、あまり役に立ちませんから、そのことが問題点だと言えます。しかしその代わりになる代替案がそれほどすばらしくないのです。北原があげているのは、例によって「未知・既知」の概念でした。

「A(既知)は B(未知)である」「A(既知)が B(未知)である」と説明しています。既知・未知の概念はわかりにくいのです。たとえば「この文章の主語は『私』である」と「『私』がこの文章の主語である」の場合、どちらが既知で、どちらが未知でしょうか。

文章をすでに読んでいるようですから、文中の「私」は既知なのでしょう。「この文章の『主語』」というのは既知なのか未知なのか、わかりません。例文によっては既知・未知が明確になるのでしょうが、しかしこんな説明なら、学校文法の方が数段ましなのです。