■日本語のマニュアルとしての文法:記述の標準化とその前提

      

1 一定の努力が不可欠な文法の習得

日本語の文法について考えようとすると、お手上げになる人がどうしても出てきます。例えば野球のルールについて、その気になれば、たぶんわかる筈なのでしょうが、私のようによくわかっていない人もいるはずです。それでも何となく楽しめてしまいます。

英文法の場合も、ある種の切実な状況に置かれた人たちが、勉強したということでした。このことは、渡部昇一が『英文法を知ってますか』などで何度も語っていることです。産業革命によって産業が発達して、適切な文章が書ける人の需要が出てきたのでした。

適切な文章が書けるなら、いい仕事につける時代がやってきたのです。こうしたチャンスを活かしたいと思う人たちの中に、英文法を学ぶ人が出てきたということでした。文法を学ぶためには、自国語の人でも、ある一定程度の努力が必要になるということです。

   

2 記述の標準ルール

日本語の場合も、これに似た傾向があります。たいていの人が文法など学ぶ必要はありません。しかし簡潔で的確な日本語を書こうとしたら、文法を学ぶことが必要でしょう。学術的な文章を書いたり、重要なビジネス文書を読み書きする場合がそれにあたります。

記述の標準ルールがない場合、適切さの基準がないことですから、文章のやりとりをする場合に、困ったことになるのです。文法というのは、文章を的確に記すためのマニュアルにあたります。その業務につく人なら守るべきルールがあるということです。

マニュアルを作るということは、標準化するということになります。標準化して、それにそって実践していけば、最低限の基準にあった文章が書けるということです。同時にそれは、基準にあった文章なら、苦労なく正確に読めるようになる方法でもあります。

記述のルールを標準化することによって、文法ができあがるということです。その目的は、学術的な文章やビジネスで使うための、正確で明確な文章を書くということになります。以下にあるような、谷崎潤一郎が『文章読本』の対象外としている文章のことです。

▼こゝに困難を感ずるのは、西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述であります。これはその事柄の性質上、緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない。然るに日本語の文章では、どうしても巧く行き届きかねる憾みがあります。 中公文庫版 p.58: 谷崎潤一郎『文章読本』

    

3 成果を基準とした判断

谷崎の『文章読本』は昭和9年の本ですから、古いとは言えます。しかし現在でも、日本語の場合、簡潔で的確な文章を書こうとしたら、ある一定期間、読み書きするときに意識的でなくてはならないように思います。外国語を学ぶような意識が必要でしょう。

日本語の文法に関して、学問の世界では、「主語」という用語の概念を統一的にとらえるのがむずかしいくらい混乱しています。一般用語として使われている「主語」という言葉を活かしつつ再定義をするか、新しい用語を使うしかないのかもしれません。

英文法の場合と同様に、文法を学ぶ側が承認するかどうか、受け入れるかどうかにかかってきます。学説の争いとは別に、利用者の選択が決定的になってくるのです。どうやら標準化という発想をする場合、成果という基準で判断されるということだろうと思います。

     

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