■岡田英弘による日本史・東アジア史の一筆書き:「現代中国と日本」

    

1 紀元前221年が中国の歴史のはじまり

岡田英弘は知る人ぞ知る圧倒的な学者です。朝鮮史・満州史の研究をやり、モンゴル学を学び、中国史の研究へも手を広げています。26歳のとき史上最年少で、日本学士院賞を受けました。その二年後に、父親の正弘が薬理学で学士院賞を受けています。

『現代中国と日本』の序章「現代中国と日本」に示された[中国と日本の「歴史」について]のいくつかの一筆書きを見るだけで、例を見ない人だと感じるはずです。[中国の歴史は、紀元前221年にはじまり、日本の歴史は紀元668年にはじまります]。

明確な言い切りの根拠として、歴史の発生の条件を示します。[今われわれが中国と呼んでいる地域に都市が発生したのは前二千年紀のことと推定されます]。そこに[南北の物資の交易場としてメトロポリスが建設され]、商業ルートのネットワークができました。

[メトロポリスから四方に広がる、点としての都市と、それを結ぶ商業ルートのネットワークが、「中国」という名の文明の原型]であり、並列するルートが[前221年に秦の始皇帝によって統合され]て中国が建国されました。さて、日本はどうでしょうか。

    

2 668年に日本の歴史が始まる

岡田の説明は、こうです。紀元前1世紀末以降、東アジアでは[圧倒的に強大な中国商業圏に組み込まれて、都市化、中国化が着々と進行していました]。しかし後漢朝の末期184年になって、中国社会の大変動によって、中国化されずにすんだのでした。

184年に「黄巾の乱」が起こり、[連年の内戦となり、農業は放棄されて、深刻な食糧不足とな]り、[中国の総人口は五千万人台から、一挙に五百万人以下に激減し]たのです。中国の経済力と皇帝の権威に寄りかかっていた倭国王は、これで失脚します。

新たに邪馬台国女王卑弥呼が選出されますが、[一時の現象で]あり、空白期が続きました。589年に隋が中国を再統一し、660年には唐が百済を滅ぼし、663年に白村江の戦で倭人を破り、668年には高句麗を滅ぼします。倭人は独立を失う危険にされたのです。

そこで[これまで倭王を中心とする倭人の諸国の緩やかな連合を解消し、代わりに統一政権を結成して、「日本」という新しい国号と、[天皇]という新しい王号を採用したのが、668年に即位した天智天皇でした。これが日本の建国です]。

      

3 間接的だった中国文明の影響

岡田の一筆書きには続きがあります。日本の建国以降、[つねに鎖国の状態にあったわけで、中国文明の影響は間接にしか及ばず、おかげで十九世紀に至るまで、中国文明の運命の巻き添えにならずに済んだのです]。これも中国側の事情があったためでした。

7世紀頃、[華北は自然環境の破壊が進行して、中国の人口の重点と経済の中心は、すでに華中の長江デルタに移っていた]のです。[韓半島は歴史の裏通り]になりました。[日本列島でも中国化が止まり][独自の日本文化の成長がみられ]ます。

▼日本列島はというと、中国の軍事的脅威に対抗して、急遽、日本国を結成したという、その出発のために、これだけ近い韓半島と再び政治・経済関係に入ろうとせず、中国大陸に対しても、皇帝の権威を認めて正式の外交関係を開こうとはしなくなります。

こうした岡田の歴史を見る視点は、日本史や東アジア史を見るときの指針になるものです。詳細な歴史を読む場合にも、岡田の視点は役に立ちます。日本史を専門にする学者でなかったがゆえに、こうした自由な視点が示せたのかもしれません。

      

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