■「共通の日本語」「文章日本語」の成立時期:司馬遼太郎の見解

    

1 大切なテーマだった日本語

朝日文庫版の『司馬遼太郎全講演』[2] には、1975年から1984年までの10年間の講演が載っています。目次をみていたら、面白いことに気づきました。最初の講演が「週刊誌と日本語」で、間に「文章日本語の成立」があり、最後が「日本の文章を作った人々」です。

18の講演録を収めるうち、1975年、1982年、1984年と3回、日本語を正面から取り上げています。「週刊誌と日本語」で言及されている桑原武夫との対話は、おそらく1971年の「“人工日本語”の功罪について」(『日本人を考える』などに所収)のことでしょう。

司馬遼太郎は、戦後の日本語が変わってきていることに気づいていました。それがどんな現象であるのか、ずっと考えていたようです。1984年講演の最後を[日本語について、このごろようやくまとまりつつある考えを聞いていただきました]と締めくくっています。

司馬にとっても、日本語は大切なテーマだったのは間違いありません。まさに現在進行形の問題だったようです。1971年の対談で悲観的な司馬に対して桑原武夫は、[司馬さんが亡くなる時代には、日本語がもっとよくなる可能性はあると思います]と語っています。

      

2 日本語をみんなで作りつつあった1970年代

司馬は日本語について、1971年の対談では悲観的でした。[日本語というか、日本語表現の場所は、もうどうしようもないものがあるかもしれない]と語っています。少なくとも、この時点では、まだ日本語は十分に完成されていないという認識がありました。

桑原が、日本語は[知的に動かすような構造をまだ持っていませんね]というのに対しても、[持っていません]と答えています。[新聞の社説は日本語の担い手として、もっと意欲的であったほうがいいように思います]とも、司馬は語っていました。

同時にこの対談で、司馬は[ひとつのセンテンスが一つの意味しか背負っていない文章]が成立して、[新しい文章がでてきた]のを感じ取っています。桑原は[一種の機能主義的な文章ですね。いまの日本語は、もうそういうところへ来ている]と答えています。

1971年の対談は刺激的だったようです。1975年講演でも、桑原武夫の話に言及しています。そして[共通の日本語というものを、国語の先生も、作家も、ジャーナリストも、みんなでつくりつつあるというのが、いまの私の認識であります]と語っていました。

      

3 文章日本語の成立時期

司馬の見解は、1982年になると変化しています。この年の講演[文章日本語の成立]で、[「文章日本語の成立」というたいそうな題であります。もうちょっと説明的に言いますと、共通文章日本語の成立と言いたいところでして]と語り始めるのです。

▼共通語ができあがると、だれでも自分の感情、もしくは個人的な主張というものを文章にすることができる。文章にしなくとも、明治以前の日本人と違って、長しゃべりをすることが出来る。そういうようなスタイルが、共有のものとして、ほぼわれわれの文化の中には成熟したのだろうという、生態的なお話を今日は聞いていただいたわけであります。

これは1982年講演の締めくくりの言葉です。1975年講演で、共通の日本語を[作りつつある]という認識だったものが、[ほぼわれわれの文化の中には成熟した]という認識に変わっています。司馬は1975年以降、この1982年講演のころまでに変化を感じたのです。

1984年講演[日本の文章を作った人々]では、「文章日本語」が成立しているという前提で語っています。[このごろようやくまとまりつつある考え]とは、もはや書く側の問題だということです。司馬は1980年頃、日本語の文章が成立したと考えたのでした。