■小林秀雄の弱点を突いた米長邦雄:『碁敵が泣いて口惜しがる本』

    

1 小林秀雄『私の人生観』から

米長邦雄はプロの棋士として、実戦の経験から自分の考えをいくつかの著作にまとめています。『碁敵が泣いて口惜しがる本』で、小林秀雄のヒラメキに関する考えを取り上げて、異議を唱えています。以下の文章についてのことです。

▼たとえば碁打ちの上手が、何時間も、生き生きと考えることが出来るのは、一つ或は若干の着手をまず発見しているからだ。発見しているから、これを実地についてたしかめる読みというものが可能なのだ。人々は普通、これを逆に考えがちだ。読みという分析から、着手という発見に至ると考えるが、そんな不自然な心の動き方はありはしない。ありそうな気がするだけです。それが、下手の考え休むに似たり、という言葉の真意である。(『私の人生観』)

小林も、碁や将棋をやる当事者が、自分の文章を否定してくるとは思わなかったかもしれません。小林は痛いところを突かれました。米長は[半分は賛成しますが、あとの半分は賛成しかねます]と言います。ところが、半分が否定されると全面否定になるのです。

将棋でも碁でも、[一流と呼ばれる人たちは、ある局面で何を考えているかというと、そのとき第一感でひらめいた手を確認しているのです]。[小林秀雄の指摘通り、だいたいは第一感で数手に絞られます]と賛成しています。問題はここからです。

     

2 トッププロになった人の現実

米長が問題にするのは、[読みという分析から、着手という発見に至ると考える]ことが[不自然]であり、そんな[心の動き方はありはしない]と言えるのかということです。そんなことをするのは無駄であって、[ヘタな考え休むに似たり]なのでしょうか。

米長は、[トッププロなら、だれでも最初から“若干の着手”がひらめくのかというと、そんなことはありません]と、実践者の現実を語ります。自分もそうであったし、他のトッププロも、そんなことはなかったということです。まず事実の認識が違っています。

[若いころはさまざまな着手がワーッと頭の中に広がって、どれが最善手なのか思いつきもしません]。それでも一生懸命に読んで、[一時間もかかって、ようやくくこれが最善手であろうという自分なりの結論を出します]。しかし、これが大外れの手なのです。 

      

3 完成品から発想することのリスク

では、[一生懸命に読んでいたその一時間というのは無駄だったのかというと、決してそんなことはありません]と米長は言います。自分で[考えたという事実、これは何にも代えがたいもの]です。解答を見て感心して、覚えても[力は全くつきません]。

米長は言います。[小林秀雄の論ずるところの「下手の考え休むに似たり」の、その「下手の考え」をいかに多く、そして長く続けられるかが、一流になれるかどうかの岐路なのです]。小林の言う通りしていたら、トッププロにはなれないということになります。

▼小林秀雄という人は、思想家であり、評論家ではありますが、けっして実践家ではありません。将棋についても、小説についても、美術にしても、常に完成された作品に対して論評しているのであって、完成するまでに棋士や画家たちが、どんなに「下手の考え」を繰り返しているか、ということについては、やはり思い到っていないような気がします。 『碁敵が泣いて口惜しがる本』

何かを自分でつくり出したり、能力を身につけて勝負する人なら、完成品から物事を見てはいけないということです。[自分の頭脳に汗をかかせることなしに、第一感で最善手が閃く便利な方法なんて、どこにも存在しないのです]と米長は主張しています。

      

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