■助詞「は」と「が」の違い、使い分けについて

    

1 既知と未知での説明

日本語に主語があるのかどうか、主語の定義次第だということになります。日本語の名詞の定義も、それに絡んでくるはずです。さらに言えば、述語の概念も明確とは言えません。なんだか個々についてあれこれ言っても、どうにもならない感じがしてきます。

しかし、こうした定義とは関係なしに、助詞の機能について説明することは可能でしょう。例えば、助詞の「は」と「が」はどう違うのかという問題です。たいていの方は、ニュアンスはわかるけれども、上手に説明できないという反応をなさいます。

大野晋は、未知と既知という概念を出して、両者の違いを示しました。「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがいました」というときの、「おじいさんとおばあさん」は、はじめて登場する未知の存在だから、「が」がつくのだというのです。

一旦登場したおじいさん、おばあさんならば、このおじいさんはどうした、おばあさんはどうしたと、「は」をつけることができるという説明です。例文がよかったのかもしれません。何度か、こうした説明をしてくださる方に出会いました。

     

2 「特定して限定する機能」と「選択して決定する機能」

「むかしむかし…」の例文を示して、既知と未知という概念で説明されると、一見正しそうに感じます。ところが「あなたのお嫁さんは、私が探します」という例文では、まだ見ぬ未知の「お嫁さん」に「は」が接続し、既知の「私」には「が」が接続するのです。

未知と既知によって、助詞「は」と「が」の概念を説明するのは無理だということでしょう。少なくとも「むかしむかし…」の例文と、「おなたのお嫁さんは…」の例文の両方が説明できなくてはなりません。難問のように見えますが、簡単に説明できることです。

助詞「は」は接続する言葉を特定し、限定する機能を持っています。助詞「は」は、接続する言葉にスポットを当てる助詞です。一方、助詞「が」の場合、選択して決定した言葉に接続します。対象を選んで、これだと決めたものだということです。

      

3 客観的ニュアンスと主観的ニュアンス

では、例文「むかしむかしあるところに、おじいさんとおばあさんがいました」の「おじいさんとおばあさん」に「は」を接続させると、なぜ、おかしく感じるのでしょうか。前述の通り、「むかしむかしあるところに」の話では、対象が特定できないからです。

いつ・どこでということが、不明確ならば、対象を特定・限定することは出来ません。対象がある程度絞り込めるのなら、「は」の接続は可能です。「2011年3月11日、仙台のホテルに、おじいさんとおばあさんはいました」ならば、「は」が無理なく接続できます。

「私は行きます」の場合、「他の人は知りませんが、私ならば行きます」ということです。明確な対象を特定し限定しているだけですから、客観的なニュアンスがあります。この点、「私が行きます」の場合、「私です!」という意思が感じられることでしょう。

私が私を選択して決定すれば、意思を感じさせるはずです。そこには主観的なニュアンスも入ります。そして「(誰かと言えば…)私です」のように、「答え」が先に示され、その後に「行きます(…というのは)」との説明が続く構造になるということです。

      

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