■構想力をめぐって:絵を描くこと・文を書くことから

1 創造することの基本・基礎

日本人が構想力の点で弱いという指摘に対して、何か対策を考えたくなります。それまでにない独創的なものをつくりあげるのは簡単ではないでしょう。しかし何とかしたいものです。これは自分自身の問題でもあります。最近、考えることが多くなってきました。

ある種の分析ができないと、自分の評価ができないという気がしています。前回、画家の手法について書きました。先日、有馬画伯とお話させていただいたときにも、どこかで創造することの基本・基礎・基盤に何があるのか…ということが気になっていたようです。

何らかの判断基準をつくることが基本であって、それは量の問題がポイントだろうと思いました。一定数、一定量以上のものを生み出さない限り、質の判断が難しいと思います。量が質に変るのではなくて、一定量がないと質の判断ができないだろうということです。

 

2 偶然による恩寵

何人もの画家が、偶然に上手くいったことを上手に取り入れながら、作品を創り上げています。このとき大切なのは、うまくいったと判断する基準です。どうやってそれを持てたのだろうかと思いました。たぶんいいモノを見るだけでは不十分でしょう。

何度か自分なりに「これはうまくいった、ちょっと気に入っている」と思える経験が必要となることでしょう。量がない限り、そのときの基準が自分の中でブレないものにならないのではないか…と思ったのです。これは画家の仕事だけではないと思います。

量というときに、絵ならば枚数ということもあるかもしれません。しかし、それだけではないはずです。「これは違う!」ともがきながら、何度もあれやこれやするうちに、あるときピタッといくのだろうと思います。それが偶然による恩寵というべきものでしょう。

 

3 多量のエネルギーが探り当てるもの

清水幾太郎が書いていたことを思い出しました。『論文の書き方』で、[書くという働きに必要なエネルギーは、読むという働きに必要なエネルギーをはるかに凌駕する]というのです。[書くという働きは完全に能動的である]という点で読むことと違います。

画家たちが、偶然による成功を獲得しようとする場合に、量が必要になるというのは、ここでいうエネルギー量のことに違いありません。能動的に、何度となく試みることが必要であり、そのためのエネルギー量は膨大なものになります。

一定水準を超えた絵を描いたり、文章を書くためには、共通する条件があると言うべきです。清水は、次のように記します。[多量の精神的エネルギーを放出しなければ、また、精神の戦闘的な姿勢がなければ、小さな文章でも書くことは出来ない]。

何かを形にするためには、多量のエネルギーと精神の戦闘的な姿勢が不可欠な条件のようです。では、それによって何を作り上げるのか? それを明確にする作用が構想力といえるでしょう。それには判断基準が必要です。話がまた初めに戻ってしまいました…。

 

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