■構想力について:現実的な目標とそのための方法

1 暮らしを豊かにする作品がつくれたら

何か新しいものをつくろうとするとき、構想力が必要になります。日本人は、それが苦手だと指摘されてきました。実際、全く新しいものをつくったり、新しい方式を考えるのは得意とは言えそうにありません。ささやかでも、何とかならないものでしょうか。

世界を変えるような、大きなことでなくとも、個人として少しずつ構想力を上げ、成果もあげたいものです。画家たちはたいてい、世界を変える作品を描いてはいませんが、日々の暮らしを豊かにしてくれる作品をときどき描きます。なかなか素敵な目標です。

ではいきなり、この世になかったカメラを構想するには、どうしたらよいのでしょうか。その答えは、まだ用意されていないようです。ただ日本人の場合、「診断と分析」が苦手だと、言えるかもしれません。これなしに全体構成を考えるのはむずかしいことです。

全体構成が考えられるなら、たとえば小説であれば、エンディングがきちんと完結したものになるはずです。代表的な日本の小説でも、そうなっていません。感覚的なものが重視され、分析が十分になされていない可能性があるのです。何かヒントはないでしょうか。

 

2 感じるのではなく、見ること

司馬遼太郎が『以下、無用のことながら』で、日本語の構造が[ハリガネ細工のようにくねくねしていて、構造として論理的でない]が、同時に[レンガ積み構造ではないから、文章が瓦解するわけではない]と指摘しました。日本語のこうした特徴が問題です。

文をつなげていくのに便利な日本語の場合、構想がなくても何となく文章が書けてしまいます。感覚が優れていたら、読むにたるものになるかもしれません。しかし初めも終わりもはっきりせず、構造も論理性も十分に確保されないものになる可能性があります。

大野晋は『日本・日本語・日本人』で、[感じるのではなくて、見る]ことが大切だと言います。これからは[一瞬の美を感じて和歌や俳句を作]ることよりも、[物をよく見て、構造的に体系的に考えをまとめるという習慣を養]う必要があると指摘します。

 

3 診断と分析の基礎

偶然の成功を活かしている画家たちが、目利きなのは、当然のことだったでしょう。ものが見えるから、偶然の成功に気づき、診断と分析ができます。何度か偶然が重なると、そのレベルまでのことなら再現できるようになります。こうなると、もはや実力です。

日本語を使って考える場合、「診断と分析」が簡単ではありません。分析を論理で行おうにも、日本語の文法では[日本語を読むときに、どこに気をつけなくてはいけないかというようなことは出てこない]のだと、『日本・日本語・日本人』で大野は指摘しました。

日本人は[分析を重ねていって原理・原則を求め、それを全体として観察して構造的に、体系的に把握する力が弱い]と、同じ本で大野は言います。まさに構想力です。ものをよく見るには[見ること見たことを正確に言葉にする]ことが基礎だといえるでしょう。

 

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