1 自分への問いかけが不可欠
文章を書くというのは、自分への聞き取りである。自分への質問を並べていくことが自然になされている。自問自答をするということである。何らかの問題に対して、自分に対して問いかけをするからこそ、何かを見出すことになる。問いかけは不可欠である。
私たちは文章を書くときに、これを知らないうちに行っている。文章が書ける人は、おそらく何かを自らに問いかけることをしながら、それに自分で答えている。質問があれば、それに答えることができる。答えることが、書くということである。
何かが書けないときには、その問いかけが、どこかで欠けてしまっているのだろう。あるいは、ずれてしまって、話が流れなくなってしまっているのだろう。こういうとき、意識して、自分に問いかけをしてみること、質問をしてみることが必要である。
2 思考を固定化する形式
文章が書けるというのは、自分に適切に次々と質問していけるということでもある。ある程度、質問に引っかかりができてくれば、そこからあとは、文章が流れてくる。文章の流れの中で思考が展開していく。書くことによって、考えが明確になってくる。
文章という形式は、自分の思考を固定化してくれる。文字に固定化しているからこそ、私たちは自分でももはや思い出せないことでも、振り返ることができる。振り返ることによって、自分の考えの甘さも見えてくる。展開のおかしさにも気がつくことができる。
文章に書いておくことは、思考を保存することである。振り返ることによって、そこに自分の問題意識を見出すこともできるし、使われている素材も、本当は何が言いたかったのかも、たいていのことを思い出すことができる。検証可能になるのである。
3 自分の文章を自分で直せること
最初から書くことが決まっているわけではない。かえって、すべて書くことが決まっていたらつまらない文章になる。そうではなくて、自分で自然な流れの中で書いたものを検証しながら、文章を書いていくことが王道ではないかと思う。
文章が書けるというのは、自分で自分の文章を直せるということである。自分で書いたものを、いったん保存して、それを見返して、そこに自分なりの手を入れていく。そのときでないと思いつかないものが保存されているからこそ、修正でより強固なものになる。
記述ということは、それが自分にとっての記録になって、そこからスタートすることを可能にしてくれる。新しい領域を切り開いていくときなど、とくに不安定な状況から、骨組みを作り上げていく過程では、記述しておくことが不可欠なものになる。
一気に書かないと、どうもうまくいかないものもあるし、何度も修正しながらでないと、詰めが甘くなる文章もある。いずれにしても、記述とその検証が可能な形式が文章だといえる。検証可能であるために、文章には、その人の責任が伴うということでもある。