■ドラッカー「未知なるものをいかにして体系化するか」について その1

1 ポストモダンのコンセプト

ドラッカーの「未知なるものをいかにして体系化するか」は『テクノロジストの条件』のプロローグになっています。これを所収する本は、上田惇生の提案によって、ドラッカー本人との[何度かやりとりの末できあがった][技術関係の論文をまとめ]たものです。

「未知なるものをいかにして体系化するか」という論文は、ポストモダンの方法序説ともいうべき内容を示しています。ビジネスの把握をどうするかを考えるときの参考になるはずです。50年以上前のものなので、自分なりの読み込みが必要となります。

もともと『変貌する産業社会』のはじめから3章の途中までにおかれた、約40頁分のものでした。『テクノロジストの条件』に収録されたものは、上田惇生が15頁にまとめたエッセンシャル版です。読むならまずこちらでしょう。わかりやすくて内容も十分です。

「モダンと呼ばれる時代から、名もない新しい時代へと移行した」と書き出されています。モダンの時代が終わったというよりも、その時代の特性が変わって、現実がモダンの時代を超えてしまったということです。

▼われわれの行動自体すでにモダンではなく、ポストモダン(脱近代合理主義)の現実によって評価されるに至っている。にもかかわらず、われわれはこの新しい現実についての理論、コンセプト、スローガン、知識をもち合わせていない。 p.3

 

2 デカルトの世界観

モダンの世界観とはどういうものでしょうか。ドラッカーは[モダンの世界観とは、17世紀前半のフランスの哲学者デカルトのものである]と言います。[デカルトこそ問題、ビジョン、前提、コンセプトを二重の意味で規定したのだった]とのことです。

[第一に、デカルトは世界の本質とその秩序についての公理を定めた]。それを[端的にいうならば、「全体は部分によって規定される」という]定義になります。求められる知識が[因果関係についての知識]であるのも、その表れということです。

[第二に、デカルトは知識の体系化についての公理を定めた。すなわち、コンセプト間の関係について定量化をもって普遍的基準とした]。ここでのドラッカーの説明は、とても印象に残るものでした。全体と部分の関係が対照的なのです。

▼全体は部分の総和であるとの主張は、デカルトが現れるまでの2000年、数学上の公理とされていた。ところがデカルトは一歩進め、全体は部分によって規定され、全体は部分を知ることによってのみ知りうるとした。全体の動きは部分の動きによって規定されるとした。さらには、全体は部分の総計、構造、関係を離れて存在しえないとした。 p.p.5-6

 

3 「形態」というコンセプト

モダンの時代がどんなであったのか、ドラッカーの説明がとてもわかりやすくて、これを基準に、現代を考えるくせがついています。その一方、このドラッカーの論文で示される新しい時代の考察について、十分に理解できたという感じが持てずにいます。

▼あらゆる体系が、部分の総和ではない全体、部分の総量に等しくない全体、部分では識別、認識、測定、予測、移動、理解の不可能な全体というコンセプトを、自らの中核に位置づけている。つまるところ、今日のあらゆる体系において中核となっているコンセプトは形態である。 p.6

これだけ読んでも、よくわかりません。さいわい[生物学がその典型である]として、事例が示されています。生物学で使われる基準は[古典力学、分析化学、統計学]だけでなく、[生態、症候、恒常、類型など調和に関わるコンセプト]も加わりました。

生態という感興全体のエコシステム、症候群と呼ばれる現象にもとづいた把握の方法、ある一定範囲に回帰する恒常性の仕組み、類似点を類型化して把握するモデル化の手法など、ある世界を把握する方法として、モダンの定量化とはたしかに違います。

ドラッカーはさらに事例をあげます。[個々の音を聞いただけではメロディーがわからない]はずです。メロディーは[部分を見ただけでは絶対に把握できない形態]だといえます。部分と全体の関係でいえば、モダンと逆であると言えるものです。

▼部分とは、全体の理解の上に全体との関連においてのみ存在し、認識しうるものである。キー次第で嬰ハにも変ニにもなるように、形態における部分は、全体における位置によってのみ識別され、説明され、理解される。 p.7

ここでの特徴は、ポストモダンで使われるものは、[質にかかわるコンセプトであり、量とは全く無関係である]ということです。質をどうやって把握したらよいのか、その点が問題です。定量化しただけでは、質の把握ができないということになります。

 

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