■梅棹忠夫の『比較文明学研究』:ビジネスの基礎理論としてのモデル その3


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7 生態系から文明系へ

梅棹は1984年「近代世界における日本文明」で、生態系から文明系への展開を提唱します。[人間は、はじめから生態系というシステムの中にくみこまれた存在]ですが、[巨大なる大脳をもつようになり、その結果として、さまざまな精神的活動をおこなう](p.447)ようになりました。

精神的活動の産物として[大量の装置・制度群をうみだして、その中で人間が生活するようになった]点が重要です。[人間の環境としては、自然にかわって、人間がつくりだしてきた装置・制度というものがより重要な意味をもつにいたった]といえます。

▼人間=自然系というシステムから、人間=装置・制度系への移行ということがおこります。わたしは、この人間=装置・制度系というシステムのことを、生態系にかわるものとして、文明系とよびたいとおもうのであります。あるいは、文明とは、このような人間=装置・制度系のことなのだ、ということにもなります。 p.448

[人間と自然とでつくりあげてきたシステム]が、[人間と装置・制度でつくりあげたシステム]へと移行することから、[生態系から文明系へ]ということが[人類の歴史]だというふうに、梅棹は捉えているのです。

人間の環境になった「装置・制度系」というシステムを考えるのが「文明学」だということです。このとき、[ある側面をとらえて文明研究をやってゆく]のではなく、[全体的観点](p.449)を見ていくということが必要不可欠になってきます。

 

8 目的なきシステム

梅棹がいう「システム」とは「システム工学」とは違います。「一般システム学」というべきものは、もっと広い概念です。[システム工学には目的があるけれども、システム学は必ずしも目的を持っていない]ということになります。

これは文明のありかたから言えることです。[文明などというものは、ある共同の目的にむかってみんなが営々と努力しているというかたちのものではない]でしょう。その点から、[「目的なきシステム」というものもあるのではないか]と梅棹は言うのです。

▼われわれが生活し、われわれとともに存在しているこの世界というものを、気持ちよく認識する方法はなにか、それは、システムとしてみればかなりよくわかる、ということです。 p.453 「近代世界における日本文明」

[生態系は、目的などなくても自己発展する](p.453)と梅棹は考えています。同時に、人間を行動にかりたてる原理があります。1957年の「文明の生態史観」で示した[現代のすべての人間の共通ののぞみ]というべき「よりよいくらし」(p.85)というものです。

個人や組織にはそれぞれの目的が存在するにしても、全体としての社会にあえて目的を設定する必要はありません。ただその行動原理として[よりよいくらし]=[生活水準の上昇]が考えられるということになります。

[目的をたてることは][工学的発想](p.453)ですが、[目的などなくても自己発展する]点からみていくことによって、[全体的観点]を獲得することができる。これが[世界というものを、気持ちよく認識する方法]であると梅棹は考えているようです。

▼「はてしなきながれのはてに、ここまできた。われわれがいまたっているのは、宇宙史的にどういうことなのか」ということを、自分で認識したいということなのです。 p.453

 

9 文明の文法のモデル化

世界を認識するときに[言語システムとアナロジーでかんがえることができる点がある](p.453)と梅棹は考えます。[文明と言語の間に、ある種のアナロジーが成立するのではないでしょうか](p.454)というのです。

梅棹は[シンクロニック、ダイアクロニックという、言語学における用語をつかい]、どういう点がアナロジーとして使えるのかを説明しています。ある単語の語源学的な変遷、[一つ一つの要素の変遷]を見ていくのがダイアクロニックです。

しかし[部分だけをとって、そのダイアクロニックな変遷をしらべても、ほとんどなにもとけない]、[単にものごとの前後関係をいうだけではなくて、つねにシンクロニックな関係というものを考慮にいれるということ]が必要になります(p.451)。

[文法が、ある時代にひとつのシステムとして通用している、これがシンクロニックな関係]であり、[言語は、全体としてシンクロニックなシステムを保持しつつかわってゆくもの](p.454)という認識、発想が必要だということです。

全体的観点の獲得のためには[文明の文法]をとりだすことが必要になります。この点、[パターンを抽出するという方法][ある文化の個性を取り出して、レッテルをはるというやりかた](p.456)では役に立ちません。

[文明全般を分析し、記述すること]が求められます。[パターンということではなく、さきほどいいました文法とか、統辞論とか―文明の統合法則をつかみたい]ということです。これが[文明の文法]のモデル化ということになります。

モデル化のためには、比較、アナロジー、システムの発想などが必要だということを梅棹は語りました。こうした点を踏まえてビジネスを見てみると、モノがよく見えるようになるのです。少なくとも、そんな気がしてきます。

1957年、ドラッカーは『変貌する産業社会』のなかで「未知なるものをいかにして体系化するか」(『テクノロジストの条件』所収)を語っています。私の場合、この文章だけでは十分な理解が得られませんでした。梅棹忠夫の視点が不可欠だったのです。

 

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