■文章の読み書き練習とその時間:速読術と比較して

 

1 理解向上に役立たない速読術

本が読めないとか、読むのが大変と言う人はたくさんいます。講義をすると、実際には普通に読めているのに、もっと読める人がいると、気にする人が必ずいるものです。そういう人の場合たいてい、もっと早く読めるようになりたいと言ってきます。

先日、勉強会に来ていた若者から、速読術というのはどうかと聞かれました。速読というものには、ある種の魅力があるようです。早く理解できなくては意味がないのはわかるでしょう、速読術で理解が早くなるのだろうかと疑問を呈しておきました。

その人も速読術に意味がないと思いながら、何となく不安に駆られて聞いてみたようです。迅速な理解が可能にならない限り、早く読めるようになったとは言わないでしょう。その場合、内容が問題です。すべての本が同じ速さで読めるはずありません。

本を読みながらその内容をきちんと理解することが大切です。若い優秀な人からすると、同じときに同じ文章を早く読み上げた人がいたので、気になったようです。しかし早く読めた人の理解は不十分でした。もう一度基本から考えてみないといけません。

 

2 「人間は言葉に所有されている」

私たちは、生まれる前から存在していた言葉によって、ものを考えています。徐々に言葉のルールを身につけて、読み書きができるようになったのです。そして習得した言葉によって考えています。考えることは、言葉を使うことと一体化していると言えるでしょう。

大岡信は『詩・ことば・人間』のはしがきで、かつて『現代芸術の言葉』に記した「あとがき」を振り返って、[私にとって大きな意味を持っていた]と記しています。ここで大岡が記したことは、当たり前のこととですが、これが基本となるものでしょう。

▼自分が言葉を所有している、と考えるから、われわれは言葉から締め出されてしまうのだ。そうではなくて、人間は言葉に所有されているのだと考えた方が、事態に忠実な、現実的な考え方なのである。 『詩・ことば・人間』p.5

大岡は[いいかえれば、われわれの中に言葉があるが、そのわれわれは、言葉の中に包まれているのである]と続けています。われわれの中に言葉があるのは、それを身につけたからでした。それが使えるのは、同じ言葉の使い方をする人がいるからです。

 

3 読み書きの練習時間

理解をするときに、読み書きの水準によって、理解の水準が変わってきます。その場合、速度を基準に習得を評価するのは間違いだとわかるはずです。読み書きそのものの質の水準が問われます。速読術に対して否定的なのは、こうした理由からです。

正確・的確に読み書きができるようになったら、結果として時間がかからなくなるということにすぎないでしょう。では、どうやったら正確・的確に読み書きできるようになるのでしょうか。自分が言葉を所有していないというところから始めるしかありません。

自分の方からルールに従うしかないのです。文中の言葉の役割がどうなっていて、その役割の組合せからすると、この文の意味はどう考えるのが適切か、と考えていく練習が必要になります。これは感覚で行えることをもう一度、意識する作業と言えるでしょう。

こうした読み書きの訓練を言葉で行おうとすると、簡単に説明のできないことがあります。何度か講義形式でドリルをやりながら説明していくと、成果が上がることは確かです。現在、速読の相談があった人も参加し、いわば紙上での実験をしています。

読み書きのレベル低下はもはや間違いありません。紙の本を読む習慣がなくなってきていますから、読み書きの苦手な人が広範囲の年代にいます。ビジネス人でも、速読訓練と同じくらいの時間ならば実践できるかもしれません。どうやら可能かもしれないのです。

 

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