■日本語の文章:論理の基礎 その4

 

1 整備されていない言葉のルール

教科書で示された主語と述語の概念は、論理的な日本語を記述するための苦心の策でした。さまざまな批判を受けながら、主語という言葉が消えてなくなりません。たとえば相手の話が分からないとき、「その話の主語は何?」という言い方がなされます。

日本語では主語と述語のみが文の要素として受け入れられ、その他の要素が示されていませんから、道具立てが不十分であることは確かです。英語ならば、SVOCという主語・述語・目的語・補語の4つの要素が基礎にあり、これで基本文型を作っています。

日本語の場合、主語という用語は定着しましたが、概念の詰めがきちんとできていません。曖昧なままに、何となく使われるうちにだんだん秩序ができてきた感じがします。概念を明確にするのが後追いになった結果、まだ言葉のルールが整備されていません。

 

2 「は」「が」の共通性を重視する教科書

教科書の説明では、主語に助詞「は」と「が」が接続することになっています。これに対して「が」の接続するのが主語であり、「は」の接続するのが「主題」だという見解も示されました。目印になる助詞が違う以上、別概念だという発想が背景にあるようです。

助詞を目印にする点では同じ考えですが、目印となる助詞「は」と「が」の共通性を重視する教科書の見解と、差異を重視する見解の違いがあります。この点、日本語文の読み書きの状況を見ると、共通性重視の考えが定着したと言ってよいかもしれません。

主題概念では、「~について言うと」という内容提示の機能が中心にあります。あとに続く解説は主題と何らかの関係がある事柄ならば足りるとの考えです。しかし、この考えでは日本語を論理的にするという目的は果たせません。絞り込みが必要です。

そこで「~について言うと」と提示したものに対して、論理的関連性を持つものを文末に置くというルールが生まれたようです。こうしたルールを基礎にすれば論理的な日本語文が記述できます。あとは「は」と「が」の共通性と差異を明らかにすることが必要です。

 

3 限定の「は」と選出の「が」

「Aについて言うと」と提示したものが文の主役(主語・主題)であり、文末に論理的整合性を持つ「どういうことである」という内容を置けば、論理性の基礎が確立します。「主役は…どういうことである」と「主役が…どういうことである」が基本形です。

「主役は」の文では、特定され限定されたものが主役になります。「Aに限定して言うと」の意味です。一方、「主役が」の文では、選択肢のある中から選んだ主役が提示されます。「Aを選出して言うと」ということです。違いは例文を見ればわかるでしょう。

「この鍵は車のキーです」という場合、「この鍵」1つだけに限定して語っています。「この鍵が車のキーです」という場合、たくさんある鍵の中から、これだと選び出した「この鍵」についての話です。どちらも「Aについて言う」形式になっています。

 

4 教科書の線に沿った論理性の獲得

「は」接続の語句でも、文の主役にならない「は」が問題になることがあります。「この本はもう読んだ」という文の場合、「読んだ」のは人ですから、「この本」は文の主役ではありません。発言した人物(私)が主役ですから、あえて記述の必要はないでしょう。

本来「私はこの本をもう読んだ」という文だったはずです。「私に限定して言えば…もう読んだ」ということでしょう。しかし「この本はもう読んだ」の場合、主役でない「この本」に助詞「は」をつけて、「この本」を強調した強調文になっています。

英語でも「It was boring」の「boring」を強調して「Boring it was」という強調文を作ることがあります。しかし強調文は例外的な構造です。日本語の場合、強調する語句を先頭に出して、そこに「は」を接続させることによって強調文を作っています。

強調文を含めた体系を構築することに意味があるのか疑問です。教科書の説明では文の基本ルールさえ整備できないほど道具不足であり、概念の不明確さにも問題があります。しかし結果として教科書に記載された方向で、日本語は論理性を獲得してきたようです。

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