■「をば」考:丸谷才一と石川淳の問答

1 江戸の俗語で強めの「をば」

『男のポケット』は丸谷才一のエッセイの中でもよくできたものに違いありません。この中に「女からもらった羽織」という文があります。「をば」という言葉について書かれていて印象に残る文章です。かつて永井荷風が「をば」を好んで用いたとのこと。

[誰がどう読んだとて、「をば」すなはち「を」であることは明らかだから、ちょっと変な言葉づかひ]という程度の話でしょうから、丸谷も忘れていたようです。ところが夷齋先生(石川淳)との対談の際にふと思い出して、「をば」について聞いてみました。

▼「あれはやはり漢文口調なんでせうか」
などと、今にして思へば頓珍漢なことを口にした。と、夷齋先生いはく。
「違ひます。江戸の俗語で、強め、強意ですね。『梅ごよみ』の丹次郎が女から羽織をもらって、『この羽織をば大事にしなくちやならねえ』とたしか言ってゐました」

丸谷は明治10年生まれの祖母が、「それからみんなで鰻をば食べて…」と言ったことがあるのを思い出します。荷風は明治12年生まれで、同年代の人です。[鰻の蒲焼となると力がこもるのは当然で、ここはどうしても強意の「をば」を使ひたくなるのだろう]。

よくできた前田勇の『江戸語大辞典』にも「をば」という項目語が見当たらないのを確認した丸谷は、以下の文でこの話を締めくくります。[将来、誰かの手で改定される機会には、ぜひ補ってもらひたいものである、もちろん例文には丹次郎の台詞を引いて]。

2 「は」によって「を」を強調

辞書の「をば」の項目には「江戸の俗語で、強め、強意」と、例文「この羽織をば大事にしなくちやならねえ」(『梅ごよみ』)があれば十分なのかもしれません。しかし、なんで[「をば」すなはち「を」であることは明らか]なのに「をば」になるのでしょうか。

どうやら「なぜ」については、石川淳も説明しなかったようです。あえて説明するほどではないと思ったのかもしれません。「を」で十分意味が通じるときに、「ば」をつけると「強め、強意」になるのだから、「ば」は強意を表すということになるのでしょう。

『男のポケット』は「夕刊フジ」に1975年4月から8月に連載されたようですから、何十年か前の文章です。いま「をば」という言葉を調べてみると、三省堂『大辞林』第三版(Web)には[係助詞「は」が格助詞「を」に付き、濁音化したもの]とあります。

「は」によって「を」を強調するとの説明に続いて、例文が「万葉集」「竹取物語」 「古今集」から採られています。もしかしたら「江戸の俗語」に限らないのかもしれません。そうなると『江戸語大辞典』にないのは当然のことだということにもなります。

3 「者」が「は」と「ば」の起源

石川淳や丸谷才一という人たちは、日本最高の教養人とみなされていました。そういう人たちの書いた見事な文章を読んだならば疑う気などなくして、たいていそのまま信じてしまうことになります。「をば」の話は、ある時ふと、あれれと思ったことでした。

濁音になると音が強くなる感じはわかります。そういう点からすると、強めの表現のときに「は」が「ば」のように濁音化すると言えるのかもしれません。たしかに「は」に限らず「た」の場合でも、濁音にして「だ」になったほうが強い感じがします。

しかし強意のとき、「た」が濁音化して「だ」になるのかどうかは微妙です。「行った」よりも「行っただ」の方が強い気がしますが、この場合、「た」から「だ」への変化とは違います。用法からすると、どうやら「は」と「ば」の関係とは別のもののようです。

河野六郎は『日本列島の言語』所収の「日本語(特質)」で、[「者」の字が、万葉仮名で「ハ」の仮名に使われたのは、「者」の文法的機能を借りて訓読したもの]だと書いています。[バは、起源において主題を提示する助詞ハと同じものである]とのことです。

『史記』「淮陰侯列伝」の冒頭「淮陰侯韓信者淮陰人也」(韓信ハ・淮陰ノ人ナリ)の「者」は主題の提示を示す役割を持ち、同じ伝にある「其意非尽呑天下者不休」(天下ヲ呑ムニアラザレ・バ)の「者」は条件節を示したものという例を河野は示しています。

「は」が「ば」に濁るのは、もともと両者が同じ「者」だったからなのかもしれません。そうなると「をば」について、丸谷が「あれはやはり漢文口調なんでせうか」と石川淳に聞いたのは、そう頓珍漢でもない気がします。妙なことで印象に残っている文章です。

カテゴリー: 日本語 パーマリンク