■言葉の魔法である詩を読む人:『丸谷才一批評集・日本語で生きる』

 

1 「子供に詩を作らせるな」

丸谷才一が「国語教科書批判」の冒頭に「1 子供に詩を作らせるな」を書いています(丸谷才一批評集第六巻)。詩を読む人なら、この見出しだけで十分でしょう。子供に詩など書けるわけないのです。手直ししたところで、どうにもなりません。

丸谷は小学校の教科書に載った「詩」の添削例をあげて、[改作前も改作後もどちらも詩ではないし、たんなる文章としては(別にどうと言うことはない代物だけど)手を入れないうちの方が数段優れてゐる]と書いています。情けなくなるような実例です。

丸谷は詩を作る代わりに「2 よい詩を読ませよう」と記します。[日本語の美しさについて、子供相手に長々と演説するなどは愚劣の極みである。こむづかしい長広舌よりも一篇の詩のほうが、そのことをはるかによく教へるだらう]。作る前に読むべきです。

▼国語教育における教材としての詩の重要性は、まづ何よりも、日本語がこれほど力強く、鋭く、匂やかで、豊かで、一言にして言へば美しい言葉であることを、意識的、無意識的に感知させるという点にあらう。

 

2 大人こそ詩を読むべき

国語の教科書に載る詩があまり印象にないのは、その選択がおかしかったからかもしれません。丸谷は[小学校の教科書に採録されてゐる詩について言へば、小首をかしげたくなるものが大部分だし、中学教科書でもその手のものはかなり見受けられた]と言います。

丸谷は小学校の教科書に載る山之口獏の『天』を取り上げ、[これはたしかに詩である]と、すぐれた作品であることを認めます。しかしこの詩が[劣等感と敗北感を歌った作品]である点を誤読していることを、「学習指導書を取り寄せて」確認しています。

よい詩を読む必要があるのは、子供ばかりでないということです。普段から詩を読まない人には、どんな詩がよい詩であるのかさえ分からないということになります。そのレベルの人が子供の詩を推敲したものなど[お笑い草として絶好のもの]とからかわれます。

▼詩で大事なのは理解することではなく陶酔することであり、教材としての詩の最大の意味は、言語の働きの極限の姿を目の当たりに示すことなのである。

 

3 詩を読むよう推奨したアーノルド・ベネット

[詩は言葉の魔法である]のです。言葉の美しさを感じ取るためには、よい詩を読むことが必要です。アーノルド・ベネットは『自分の時間』で、大人が時間を作ってでも詩を読むべきだと主張していました。言葉の重要性を重視しての提言です。

自分が使う言葉の美しさを知らないことは、大いなる損失であることに違いありません。ベネットは歴史の本を読むよりも、詩を読むべきだと主張していました。丸谷の批判対象も子供ではなく、小学中学のよい教科書が作れない大人に向けてのものでした。

批評集で丸谷が日本語について書いた中でも、以上の詩の部分はとくに優れたものと言えます。言葉に関心のある人は、ためしに詩を読んでみるのも、よいかもしれません。そのとき[真の詩を与へなければならない]のです。何から読めばよいでしょうか。

丸谷は[萩原朔太郎の「ふらんすへ行きたしと思へども」や「しづかにきしれ四綸馬車」をとる教科書は現れないものか]と語り、三好達治の『雪』の[典雅で緊張した世界とぢかにぶつかることの重要性]を語ります。近代詩人を代表するこの二人がよさそうです。

 

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