■松下幸之助の講演録:『経営にもダムのゆとり』

1 経営の神様:松下幸之助

戦後、日本の経済人はドラッカーの講演を熱心に聞いたようです。ドラッカーの初来日は1959年でした。1966年までに7回来日したとのこと。このときの講演が講演録になって、版を重ねました。講演を聞かなかった人でも、講演録をよく読んだのでしょう。

キャノン電子の酒巻久社長も、1967年にキャノンに入社したときの初任給で、『経営の適格者』という1966年の講演録を購入したとお書きになっています(『ドラッカーの教えどおり、経営してきました』)。影響が大きかったのは間違いないようです。

しかし、当時ドラッカー・マネジメントが主流になっていたかというと、どうも違うようです。あるときソニーの幹部だった方から、当時のお話が出ました。その人は盛田昭夫氏夫人から言われて、ドラッカーの娘さんを車に乗せて案内したこともあったそうです。

1960年代のソニーはまだ経営が安定してなくて、どう経営したらよいかと思っていたから、ドラッカーに飛びついたのだというお話でした。ところが松下さんのところは幸之助さんが経営の神様だったから、ドラッカーなんて相手にしてなかったというのです。

松下幸之助は1955年以降の10年のうち、長者番付トップが8回あり、1960年代にはすでに「経営の神様」と呼ばれていました。影響力はどうやらドラッカーよりも上だったようです。松下幸之助の講演会に、多数の人が集まりました。講演録も残っています。

 

2 講演録『経営にもダムのゆとり』

『経営にもダムのゆとり』(松下幸之助発言集ベストセレクション第二巻)は、1963年(昭和38年)から1965年(昭和40年)までの5つの講演を収録しています。いまやドラッカーを読む人のほうが多くて、松下幸之助の講演録を読む人のほうが少ないかもしれません。

これらは50年以上前の講演ですが、今でも十分に読めるものです。最初に置かれた1963年「経営者の責任感」には、講演だけでなく、それよりも長い質疑応答が収録されています。わかりやすい言葉で、重要な事柄が語られています。読むべき第一の講演録です。

▼経営とは何ぞやというような、経営の正しい理念を、お互いの立場において生み出さねばならないと思うのです。もちろん万人が万人とも同一の経営理念は生まれてこないと思います。(中略)それは違っていてもよろしいが、そういうものを持たずして経営をやるということは、まことに心もとないという感じがいたします。 (pp..26~27)

正しい経営理念を追い求めることが第一のことだと、松下は提唱します。[第二はそれを基礎にして、やはり通俗な言葉でいうと、商売を“勉強する”ということです。お得意を大事にするということですな、早くいえば](p.61)ということになります。

年功序列についての質問に対して、[“私”の企業と言えども本質は社会公共の仕事である、と、こうお考えになれば、そこに勇気も出てきますね。改革も出てきますね。]と答えます。功労を認めた上で、地位にふさわしい人に機会を与えるべきだという考えです。

 

3 松下の理解に役立つドラッカー

質問の中には、[私は利益を追求するのが最終目的であると考え、うちの社長は、「そうじゃないんだ、われわれの努力した結果たまたま利益が出た、それがわれわれに恩恵となって帰ってきた」という風な考え方なんですが…。]という興味深いものもあります。

松下は[利益の追求はせんでも、一生懸命働いたら利益はひとりでに来るということは、私は至言だと思いますね]と答えます。同時に[実際の商売人がそういうことを言ったらあきません。だからあんたはそれでよろしいわ。大いにやりなさいよ]と励まします。

このあたりを整理して、1964年の講演で語っています。[私的に暴利を追及することは、これは許されない、これは排撃せねばいけませんけれども、適正な利潤を確保することから社会性というものが高まっていくという解釈](p.163)が必要だというのです。

ドラッカーの本を読む人なら、松下幸之助の考え方がドラッカーと重なっている部分のあることに気づくはずです。私自身、ドラッカーの本を読んだことによって、以前よりも一層、松下幸之助の講演録が興味深く感じられるようになりました。

松下幸之助が経営の神様と言われて受け入れられたとき、デミングやジュランなどQCの提唱者が受け入れられ、それと同時にドラッカーが歓迎されました。ドラッカーがいたからこそ、その他の人たちの考えがより一層わかるという効果があったように思います。

 

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