■谷崎潤一郎『文章読本』:文法を否定的に扱ったことの効果 その1

1 文法を否定的に扱った谷崎『文章読本』

谷崎潤一郎『文章読本』はもはや古典といってよいのでしょう。この本の読者でなくても、谷崎が文法を否定的に扱ったことを知っている人は思いのほかいます。先日も、谷崎のような文章のうまい人が文法を否定しているのをどう思うかと聞かれました。

私の答えは、歴史的な証言になると思いますというものでした。『文章読本』は昭和9年(1934年)の出版です。たしかに文法を否定的に扱っています。「二 文章の上達法」に示された2つの項目は、「文法に囚われないこと」と「感覚を研くこと」でした。

[文法的に正確なのが、必ずしも名文ではない、だから、文法に囚われるな]と太字で強調してあります。文法という文のルールが役立たないため、[読者自身が感覚を以て感じ分けるよりほかに、他から教えようはない]と太字で強調することになりました。

問題は、その結果がどうなったかです。この点を見逃している人がほとんどのように思います。質問してくださった人も『文章読本』を読んでいませんでした。谷崎は文法を否定的に扱っているのですが、それは日本語の文法が確立されようがなかったからです。

 

2 対象外とされたビジネス文

では谷崎の『文章読本』はビジネス文(ビジネス文書)を書くときに役立つでしょうか。そう聞いてみると、たいていの人が困った表情になります。小説家の文章読本だから、少し違うかもしれません…といった答え方になるのは、当然のことなのでしょうか。

『文章読本』に記されているのに、意外に読み飛ばされている重要事項があります。この本で対象としている文章のことです。[私がこの本の中で説こうとするものは、韻文でない文章、即ち散文のことであります]。これは当然でしょう。問題はこの先にあります。

▼ここに困難を感ずるのは、西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述であります。これはその事柄の性質上、緻密で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない。然るに日本語の文章では、どうしてもうまく行き届きかねる憾みがあります。 (中公文庫版:pp..68~69)

その結果、[この読本で取り扱うのは、専門の学術的な文章でなく、我等が日常眼に触れるところの、一般的、実用的な文章であります]となります。昭和9年にビジネス文書が日常的に目に触れるはずもなく、これが対象外なのは、以下の記述でも明らかです。

▼実用の文章のみならず、学術的な文章の或るもの、たとえば法律書や哲学者の如きものでも、その或るものは緻密に書けば緻密に書くほど疑義が生じてきますので、論理的遊戯に耽るのでない限り、古い東洋の諸子百家や佛家の語録の形式等を借りたほうが、われわれには理解しやすく、読んだものが真に身につくと思います。 (中公文庫版:p.72)

これではビジネス文など書けません。谷崎の『文章読本』が書かれた昭和9年(1934年)の時点では、まだ論理的な文章を書くことに無理があるという認識が一般的だったのかもしれません。実際、日本語の発達に不十分なところがあったというべきでしょう。

 

3 文法を気にする24年後の文章

谷崎は『文章読本』に[語彙が貧弱で構造が不完全な国語]と書いています。日本語の不十分さを谷崎自身は自覚していました。こうした言葉の未発達という問題は、その後、徐々に解消されていきます。戦後の経済成長が日本語にも影響を与えていきました。

その少し前の昭和33年(1958年)、谷崎は「氣になること」という文章を書いています。新聞の文章を引いて、[読者にとっては、一度ですらすらと、読み返す必要がなく素直に頭に這入ることが第一の条件]と書いています。その上、文法の必要性を語っています。

▼「まき起こった」の下に英語の関係代名詞に当たる言葉があったほうがいいのではないか。そして何よりも「筆者は」と云ふ主格を省略してあることが、よろしくないのであると思ふ。

素直に頭に這入ってくる文章にするためには、ある種の文法ルールが必要だということです。昭和9年(1934年)に、文法に囚われず、感覚を研くようにと書いてから24年後のことでした。ただし、まだ日本語の「構造が不完全」という問題は存在していました。

▼欧米語のやうに文章の組み立て方が規則的に出来てゐるならいいが、日本文は不規則なところに長所もある代わりに短所もあり、慌てて書くと得てして乱脈になりがちである(中略)専門の係りを置いて、編輯部に集つて来る文章を巨細に検査する必要がありはしないか。新聞にそんな注文をつけるのは無茶だと云ふかも知れないが、私は是非ともそれが必要であると信ずる。

谷崎の言い方を見ると、日本語の文章構造の問題も、気をつければ克服できるという考えのように感じられます。不規則ながら、ある種の秩序があるということです。この秩序が文章のルールになります。日本語が変容し始めたということかもしれません。

(この項続きます。⇒「その2」

 

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