■名人の「戦略論」:古今亭志ん生『なめくじ艦隊』から

 

1 夜中にひとり起きて噺の稽古

古今亭志ん生に『なめくじ艦隊』という本があります。今ではちくま文庫に入っています。落語のことが分からないため、この人がどのくらいすごい名人であるのかはわかりません。おそらく名人なのだろうということを、この本の語りから感じ取りました。

志ん生が家賃タダで借りていた長屋の風景を、徳川夢声が[「なめくじ艦隊」という題で、あのころある雑誌に書いた]。それがこの本の題名になりました。推薦文で夢声は「志ん生の芸ほど日によって、出来不出来の差のはげしいものはない」と記します。

この本にも、生中継があるのに酒を飲んでいて、着いた時には[もう時間が過ぎていて、誰かが高座へつなぎに上がっている]という話があります。このとき[何の噺をしたか自分でもわけがわからねえ]ということですから、不出来もかなりあったのでしょう。

それでも[寄席に出られなくなつた時でも、噺てえものを放つたらかしたことはなく、夜中にひとり起きて噺を稽古をよくやったもんです]と語っています。噺をやらずにいられなかったのでしょう。[勉強しろ、勉強が足りない]と息子の落語家に言うそうです。

 

2 いさぎよく捨ててしまって、別のものを探す

名人ならば、自分の本分だと思ったものをやらずにはいられないのでしょう。それが志ん生の噺、落語の基礎にあるようです。そのためにこの人の落語に対する評価は厳しいものになっています。「名人かたぎ」という章で、名人を語りながら自分を語るのです。

円喬という名人がいました。[あたしの師匠だつた]とのこと。[何をやつてもうまかつたんです]。ところが[研究会のときに小さんの碁泥の噺をきいて、「おれは小さんの碁泥のようには、どうしてもできないから、この噺はもうやめた」]と言ったそうです。

実際にそれ以来、円喬は[この噺はぜつたいにやらなかつたんです]。[(自分の噺よりたしかにすぐれている)と思いながら、シャーシャーと涼しい顔でやるようなやつは、やつぱし何にもない人間にちがいありませんナ]と語ります。

こういう基準は、噺に限らず使えるものでしょう。[あたしだって、自分でやつてみて、自分よりたしかにうまい、その人のようには出来ないことをさとつたら、いさぎよくその噺はすてちまう。それがわからないようなこつちやダメですよ]というのです。

自分が同じ分野で競争しようとして、自分よりも強い競争相手がいたら、負けないように努力することも一つの手でしょうが、名人はいさぎよく捨ててしまって、別のものを探すという道を選んでいます。各人うまく行くものとそうでないものがあるのが当然です。

 

3 選択と集中の基準

なぜ努力して追いつこうとする代わりに、やめるという選択をするのでしょうか。志ん生は当たり前というしかないほど単純明快な理由を示しています。自分が選択と集中を行うときにも、この基準が使えるはずです。言われてみればその通りというしかありません。

▼「こいつは自分よりまずいナ」と思うと、それは自分と同じくらいの芸なんですよ。やつぱし人間てえものには、多かれ少なかれうぬぼれてえものがあるんですからね。それから「こいつは自分と同じくらいだナ」と思うくらいだと、自分より向こうの方が上なんですよ。だから、「こいつは自分よりたしかにうめえ」と思った日にゃ、格段の開きがあるもんです。

努力する対象を自分の強みに合わせるためには、まず現状で格段に落ちると思われるものへの深追いをやめなくてはなりません。自分が本来、力を集中すべき対象を選ぶためには、それにふさわしくない対象に手を出さないようにすることが必要不可欠です。

個人でも組織でも、全てのことをするわけにはいきません。選択と集中が大切です。そのとき一番大切な基準が集中すべきでない対象を排除することになります。志ん生の説明は戦略論の本よりも、ずっとわかりやすくて説得力のある説明です。名人だと思いました。

 

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