■要素還元主義・因果的思考の否定:現象学とドラッカー・マネジメント(2/2)

1 デカルトが示すモダンの世界観

先週、木田元が『闇屋になりそこねた哲学者』12章「現象学とは何か」で行った現象学の一筆書きをご紹介しました(⇒「その1」)。現象学が誕生したのは、従来の学問の基礎となっている大陸合理主義の考えが現実に合わなくなっているからでした。

20世紀に入ると同時多発的に大陸合理主義の否定論が提示されます。その有力な否定論が現象学でした。心理学ではゲシュタルト心理学が登場します。大陸合理主義の考え方に立てば、自分の経験や思いとは関係なしに、客観的な世界が存在することになるのです。

客観的な世界では、①[現象は個々の要素に還元でき]、②[要素相互間に確固とした因果関係が存立している]と考えます。対象を分解し、分解された部分の因果関係を見て全体を構成するという発想が多くの学問の基礎でした。現象学はこの考えを否定します。

マネジメントの世界でも、大陸合理主義の考えに否定的です。ドラッカーは1957年の『変貌する産業社会』でこの問題を正面から論じました。この文章は現在、『テクノロジストの条件』の「未知なるものをいかにして体系化するか」で読むことができます。

ドラッカーは客観的な世界を[モダンの世界観]と呼び、その[世界観はデカルトのものだ]と語ります。木田元と同様の考えですが、もっと絞った捉え方をしているようです。デカルトは「部分の総和が全体である」という考えのうち「部分」を重視します。

▼全体は部分によって規定され、全体は部分を知ることによってのみ知りうるとした。全体の動きは部分の動きによって規定されるとした。さらには、全体は部分の総計、構造、関係を離れて存在しえないとした。

 

2 対象の全体像を示す形態

ドラッカーは、モダンの世界観では現実を捉えきれないと考えます。部分が全体を規定するという考えは現実とは異なるモノの考え方です。さらに物事を把握するときに使う[定量化をもって普遍的基準]とする考え方も、妥当範囲の広すぎる行き過ぎた考えでした。

ドラッカーはゲシュタルト心理学の考えに賛同して、[今日のあらゆる体系において中核となっているコンセプトは形態である]と書いています。形態とは、対象の全体像を示すものです。ドラッカーはこうした世界観を、モダンに対してポストモダンと呼びました。

▼あらゆるものが因果から形態へと移行した。あらゆる体系が、部分の総計ではない全体、部分の総計に等しくない全体、部分ではない識別、認識、測定、予測、移動、理解の不可能な全体というコンセプトを、自らの中核に位置づけている。

従来の考え方は行き詰りました。しかしポストモダンの思想が確立したとまでは言えません。[今日、モダンはもはや現実ではない。さりとて、モダンの後の現実であるポストモダンも、いまだ定かな世界観となるにはいたっていない]状況です。

それでもポストモダンの基礎となるべき原則があります。(1) 部分が全体を規定するのではなく[部分は全体との関連においてのみ存在が可能であるとする新しい公理]を採用すること、(2) 因果律の代わりに[目的率を核とする]ことです。

仕事をするとき、目の前のことだけに意識がいくならば、仕事の全体像が見えていないことになります。仕事の全体像を作るのは目先のあれこれの集合ではなくて、組織全体として何をするのか…という目的意識です。現実はポストモダンの世界にあります。

[ポストモダンにおける秩序とは、全体の目的に沿った配置のことである]とドラッカーは言います。全体の目的との関係で、個々の仕事の役割が見えてきます。そして[ポストモダンにおける目的は形態そのものに内在する]のです。これがポイントでしょう。

目的は最初にあるのではなくて、内在するものです。組織が置かれている環境の中で、組織の状況と環境との関係から目的が見いだされます。はじめに絶対的な目的があるのではありません。[宇宙の目的ではなく宇宙の中の目的]を探るということです。

 

3 ポストモダンの世界で求められる体系

ドラッカーは[ポストモダンの世界観は、プロセスの存在を必須の要件とする]と言います。[大人が少年に戻ることはなく、鉛がウラニウムに戻ることもない]。こうした変化は質の変化を伴うため、元に戻そうにも元に戻ることはないのです。

ビジネスの世界を見れば明らかでしょう。[プロセスにおいては成長、変化、発展が正常であって、それらのないことが不完全、腐敗、死を意味する]のです。しかし「形態、目的、プロセスを目にしながら、これらの言葉の真意をいまだ十分には理解していない」。

▼実際に仕事をしている人たちは、形態とプロセスのコンセプトを理解する。それどころか、形態とプロセス以外は眼中にない。しかし彼らといえども、厳密な作業をする道具としてはデカルト的世界観に立つ古びた方法論しかもたない。

デカルト的世界観の強みはシンプルで包括的なことです。定量化はわかりやすく、応用範囲も広い。現在の[われわれの知識が、一般化するどころか専門化し複雑化しつつある]のは[包括的な哲学体系]が[欠けたままである]からだと考えられます。

求められる体系は、①全体のコンセプトを与えるための体系、②定性的で不可逆の変化についての体系、③変化の予期を可能とする厳密な体系そして方向性を示す体系…です。[われわれは目的の哲学、質の論理、変化の測定を必要としている]と言えます。

注目すべきことをドラッカーは指摘します。[すでにそのような体系を基盤として仕事は進められている。すなわちイノベーションであり、個と社会との調和のための諸々の仕事である]。体系化ができていないのに、なぜ仕事が進められるのでしょうか。

答えは簡単です。[正しい問いがなされるや問題は解決の緒につく。そのとき、われわれは何が適切であって、何が意味あるかを知る]からです。実際に行っていながら、その方法が体系化されないことはあります。成果から見る方法をとっているということです。

現象学をめぐる哲学の問題が、マネジメントの基礎理解に直結しています。適応範囲が広いマネジメントの場合、論理や方法を体系化することが必要です。それらは哲学の領域の問題でしょう。ドラッカーはそれを取り込むことを当然の前提としていたようです。

*形態について  こちらをご参照ください ⇒ 「形態とはどんなものか:ポストモダンの方法」

 

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