■宇野千代の小説の作り方:王道を行く仕事の仕方

1 読みが正確だった三島由紀夫

小説を書く人は、どうやって作品にしていくのでしょうか。作家ごとに違うはずですから一般化するのは無理でしょう。宇野千代がどうやって小説を作るのか、本人の発言を交えて少し探ってみたいと思います。この人の小説はこれからも残る気がするのです。

1957(昭和32)年、起稿から10年にして宇野千代は『おはん』を完結させています。この年、三島由紀夫と対談しています。当時、宇野は60歳、三島は32歳でした。三島が優れた批評家だったことがうかがえます。『おはん』に「アドルフ」の影響を見ています。

[「アドルフ」とか「クレーブの奥方」は若い時から何百回は読んでおりますから、何を書いても、その影響は抜けないくらいです]と宇野は答えてます。宇野の小説の基礎は、フランス文学のこれらの小説にあるようです。繰り返し読むことで学んだようです。

三島は、小説の中の女である「おはん」も「おかよ」も両方とも幸せで、男がかわいそうだと指摘すると、[そう、あの男は一番かわいそうです。でも、だれもそれをいってくれないんです][正確に読んでいただけて嬉しい]と宇野は答えています。

▼おかよは自分のしたいことを100%して生き切っている女-そういうつもりで書いたのですけど。だから「おはん」の中で、神様に叱られる人間といったらおはんとおかよの二人でしょうね。  (KAWADE夢ムック「文藝別冊 三島由紀夫」)

 

2 西洋文学の本質的な影響:構成の確かさ

三島は『おはん』の構造を正確に言い当てました。男が[二人の女に対して同じ程度に好きだという点]をあげ[非常に抽象的なくらいに正確に半分ずつ]だと言い、また[心理の突然の変化][ところどころフッフッと心理が変わる]のをおもしろがっています。

批評家から[この小説は古い世界のことで、現代にはちっとも関係がないといわれ]るが[私なんか朝晩ああいうことが思い当たるような気がするんです]と宇野が語ると、三島は[「おはん」は抽象小説なんですよ]と答えます。三島は読めていたようです。

[あなたが初めてですわ、抽象小説だといってくださったのは]と宇野は反応して、語ります。[私が一番気がついてもらいたいなあと思ていたことで、自分でいうとタネ明かしになるようでいえなかったことを、いっていただいたので、とても嬉しい]。

三島はこの間の事情を一筆書きします。[最も日本的な小説だと思っているものが、実は一ばん西洋文学の本質的な影響を受けている]。方言を使って何でもないように書かれている小説が、全体の構成を計算して作られているのです。やはりと思わせる対談でした。

三島が正確に読み取れたのは、読解能力の高さが基礎にあったからだと言っても間違いではないでしょう。しかしそれだけではなかったということです。フランス文学などの西洋文学になじんだ人なら気がつくほどの構成の確かさが、この小説にはあったのでした。

 

3 大枠を決めて検証しながら行動

具体的な構成のポイントを、「筑摩現代文学大系」の解説で山本健吉が示します。[この小説には時代の限定がない。大正あるいは昭和の何年と推定させるような記述は、注意深く排除されている]というのです。なぜそうした措置が取られたのでしょうか。

その前の[『色ざんげ』があまりに強く時代の風俗に染められ、それが古びやすさの欠点となっていた][『おはん』の超時代性は、作者の反省の結果とも思われる]と推定しています。[『おはん』は最初から古典であることをめざした小説のように思われる]。

繰り返し読んだフランス小説から、構成の仕方を宇野は学んでいます。それを検証しながら作品に生かしたようです。『おはん』が10年かけて書かれたのも、小説の構成をどうするかに苦労したためだったと思います。自分のものにするための時間だったようです。

瀬戸内寂聴との対談で、マードックの小説から学んだ話をしています。[マードックを真似して何度も書こうと思ったけどダメでしたね。真似は絶対に恥ずかしくありません][私は作品で真似するの大好き]と語っています。では構想はどうできるのでしょうか。

▼ドストエフスキーでも、あれだけのものをはじめから構想して書いたんじゃないと思うの。私の小説作法にあるように、最初「雨が降っていた」という一行を書いて、だんだんと書いていくうちにああいう構想ができてきたんだと確信しています。 (瀬戸内寂聴『わたしの宇野千代』)

瀬戸内が[きちっと始めから終わりまでノートができていて、それから書くっておっしゃる方がいますでしょ]というと、宇野は[あれは駄目]と答えています。画家も同じ答え方をする人がいます。大枠を決めて、あとはピタッといくまで何度もやり直すのです。

先の三島との対談で宇野が[三島さんはお書きになったあとで、あすこは書き落とした、ここは書き足りない、ということはありませんか]と問うと、三島は[そういうことは絶対にありません]と答えます。宇野は[私は一っぱいあとから出てきますわ]とのこと。

三島は終わりまでノートを作った人でした。宇野の場合、大枠を決めたあと、検証しながら書き進めていく方法でした。瀬戸内との対談で[今読んでも、あれだけのものはなかなか書けないなと思います]と語っています。王道を行く仕事の仕方だと思います。