■谷崎『文章読本』への評価:清水義範『はじめてわかる国語』から
1 谷崎『文章読本』の功罪
清水義範の『はじめてわかる国語』に谷崎潤一郎の『文章読本』が取り上げられています。「谷崎『文章読本』の功罪」という章で、「谷崎『文章読本』というものが日本の文章に与えた影響の大きさは相当なものだと言わなければならない」と書いています。
[今回は谷崎『文章読本』はどのような点において名著なのかを考えていきたい]とのこと。昭和9年に書かれた谷崎の本は、文章読本の系列の中でも相変わらず読むべき本です。ただし[言っていることが矛盾だらけだと非難する人も多い]のもたしかです。
清水は高校生のときに、この本を[読んで以来、私は文章に興味を持ち、この作家はこういう文章か、この人はこうか、学術論文ってこういう文章であることが多いな、素人の新聞の投書は必ずこんなふうだな、などということを気にかけるようになった]。
影響の大きな本でした。[私は谷崎『文章読本』の生徒であった]と記しています。それゆえ、[あの本のどこに私は感動したんだろう]と改めて考えてみようということになったようです。自分の感動の要因がどこにあったのかを探る興味深い試みだと思います。
2 よくわかる文章で書いた谷崎
谷崎は[素人のための文章入門書を書いている]のだと清水は言います。題名に「読本」という用語が入っているのは、素人向け入門書だからだという解釈です。[『私の文章作法』を書いているのとはまるで違っている]ことを指摘しています。
その上で、谷崎の主張を次々あげて[おかしい]と言い、内容が[矛盾だらけの本]だと言います。[結局この『文章読本』は、文豪谷崎潤一郎が大衆に向けて語った、文章よもやま話、に過ぎない]というのが結論です。では、何がすごかったのでしょうか。
▼谷崎が、誰にもよくわかるように書こう、と思って書いた文章は、ものの見事によくわかるのである。どんな部分を見てみても、意味が濁っていたり、曇っていたりすることはない。すらすらと頭の中に入ってきて、非常にすっきりと腑におちるのだ。私はそのわかりやすさに驚嘆したのだった。
内容を問題にしていません。谷崎の文章がうまいことに驚嘆したのです。[内容に全面的に賛同したのではない][谷崎の説く論旨に納得したのでもない]、[読んでいる間、その本の中の文章に意味のわからないところはひとつもない]文章に感動したのです。
清水の評価は、[谷崎は『文章読本』を、これ以上はないというほどよくわかる文章で書いた][こんなに面倒なことを、こんなにわかりやすく説明できる人がいる、ということに感動した]という評価になります。その結果、清水にその作用が及びます。
[私は、曇りや濁りなく言いたいことがきちんと伝わる文章こそが、いい文章なんだという考えの持ち主になった。以後、そのために文章を工夫するようになった]。こうした影響を与え[てくれた点において、私には谷崎『文章読本』が名著なのである]。
3 文章メソッドの整備
文章を論じた本の著者の文章がよくて、その本に影響を受けた…、なかなかいい話です。「文章読本の真相」と題した次のパートで、谷崎の『文章読本』に限らず、文章読本全般について、『文章読本さん江』の著者である斎藤美奈子と対談を行っています。
清水は斎藤の本について、[明治から今日まで振り返ってきても、作文教育はあっち行ったりこっち行ったりしてよれよれであると][だから、そういう本(注:文章読本)が求められる]という主張だと語っています。そうなのかもしれません。
その中でも谷崎の『文章読本』は[斎藤さんので整理された感じで振り返ってみて、かなり日本語の重要なポイントを言っていることは事実なんですよね]と言い、後続のものと違って、「あれは本当に『文章読本』を目指している」と語ります。
しかし清水も斎藤も、谷崎の『文章読本』の試みは失敗していると考えています。谷崎以降のものは、当然うまく行っていないと考えています。斎藤は言います。[『文章読本』がたくさん出るというのは、もう一つは技術論がちゃんとないせいだと思うんですよ]。
▼箸の上げ下ろしみたいな細目に目くじらを立てるくせに、バイエルみたいに順々にやっていくメソッドは整備されていない。そんなものは順序立てて出来ないものであるという思い込みもあって、みんなそれぞれ勝手な、私の技法というのを出してくるわけですけども。最後は「文章は品格じゃ」とか言ってお茶をにごす。
文章読本に関して、以上の斎藤の発言に尽きている気もします。清水が谷崎『文章読本』の内容ではなく、文章に感動して影響を受けたというのは健全だったのでしょう。ただし2章にあたる「文章の上達法」は別格です。これについては、いつかまた書きましょう。