■エマニュエル・トッドの発想:大胆な仮説の必要性

1 2006年出版の『「帝国以後」と日本の選択』

エマニュエル・トッドは「1976年若干25歳にしてソ連の崩壊を、乳児死亡率の異常な増加に着目し、歴史人口学の手法を駆使して予言した」(藤原書店の紹介文)ことで知られています。新書やインタビューの本など、理解しやすい形式での発信もなされています。

2006年に出た『「帝国以後」と日本の選択』はいろいろな機会に語られた発言が集められています。各パートを拾い読みのようにしていくこともできます。そこで示された一筆書きは興味深いものです。10年前の本なので現実の推移と対比しながら読めます。

『帝国以後』は、「世界がアメリカなしでやっていけるようになり、アメリカが世界なしではやっていけなくなった」「アメリカがもはや『帝国』でないことを独自の手法で実証し、イラク攻撃後の世界秩序を展望」した(藤原書店紹介文)、2002年出版の本です。

出版まもない2003年3月20日にイラク戦争が起こりました。イラク戦争は[アフガニスタンに侵攻したソ連に擬するのがよい]とトッドは語っています。開戦まもない2003年4月4日付のイタリア『イル・マニフェスト』紙上のことでした(上記2006年の本所収)。

1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻がソ連の国力を弱め、1991年のソビエト崩壊につながっていきました。類似のことがイラク戦争におけるアメリカにも起こって、アメリカが弱体化していくと考えたのでしょう。こうした大胆な発言がトッドの魅力でした。

 

2 思い切った仮説の重要性

トッドは『帝国以後』でアメリカの弱体化を語りました。現実はトッドの言うほど、アメリカは弱体化しませんでした。予言が当たったといわれるソ連崩壊に関しても、小室直樹のほうが正確な予測だったと思います。この点、養老孟司の指摘が大切でしょう。

この本に書いてあることがすべて本当だなどとは、夢にも思っていない。しかし、こういうふうに考える「べき」なのである。仮説が間違っていれば、訂正すればいい。今の日本の学界に欠けているのは、この種の思い切った仮説である。 [『「帝国以後」と日本の選択』所収 p.104:2003年5月11日付 毎日新聞 『帝国以後』書評]

こうした発想でトッドの仮説を読んでいこうとするなら、『「帝国以後」と日本の選択』が一番よいかもしれません。この時期のトッドの本には「思い切った仮説」がいくつも提示されています。例えば、英語について語った以下の部分など、興味深い指摘です。

英語の覇権現象こそが、アメリカ合衆国の文化的衰退を覆い隠しているものなのです。私の見るところ、この言語が帝国滅亡のあとに生き残るのは明らかです。ちょうどラテン語が、全ヨーロッパの教会の間のコミュニケーション手段として生き残ったようにです。 [『「帝国以後」と日本の選択』所収 p.21 :2005年11月自宅でのインタビュー]

英語が特定の国の所有物でなくなりラテン語化していく面があります。会話が地域化する一方で、学会やビジネスで使う文章が文法という共通のルールに沿って書かれる傾向が強まっています。現実には冷戦がヨーロッパに果実をもたらしたとトッドは見ています。

共産主義の崩壊について、[アメリカ資本主義の紛れもない成功]に見えるが、[実際の経済的事実としては、ヨーロッパがその空間を、地理的に見れば明らかにつながっている東欧に向かって大きく拡大したことだと定義できる]とのこと。その通りでしょう。

 

3 ヨーロッパ・ロシア・イスラムが専門

同じ本で武者小路公秀が指摘するように、[ユーラシア圏と北大西洋圏とを対峙させて論じ]る[トッドの大陸中心の地政学も、ロシアを重視しながら、中国と日本]への視点が弱い点があり、[きわめて西欧中心的な見方をとっている]という感じはします。

ヨーロッパやロシア、あるいはイスラムが専門領域なのでしょう。この本でイスラムについて語っている内容も注目されます。[いまのイスラム圏の状況は、後退ではなく、むしろイスラムが近代化し民主化への過渡期の危機にあるんだということです]とのこと。

世界のすべての地域は近代化するときに大きな社会システムの変動があって、過渡期の危機を迎えるわけですね。まず識字率が上がる、そして受胎調節によって人口の増加を調節できるようになる。そういうことによって、家族構造の権威関係が変わる。男女関係も変わっていきます。そしてそのような識字化と受胎調節によって近代化は社会構造の大きな変化を伴いますから、必ずそれは危機を引き起こします。 [『「帝国以後」と日本の選択』所収 p.177 :2004年1月14日:青山学院大学]

こうした洞察の一方で、東アジアのことになるとどうもズレが生じます。同じ場所で、北朝鮮は日本の脅威になるとは思わないし[核開発をするという脅威を過大評価するという形でもって、アメリカは日本を自分の支配下におこうとしている]と語っています。

 

4 中国の将来について語る

トッドは2015年に『トッド 自身を語る』を出版しました。相変わらず冴えた見解が示されています。しかし思い切った仮説を提示する点では後退しています。いい例が、この本にある2013年12月7日のインタビューで中国の将来について語ったところに見えます。

1) 中国には老人も子供も少なく膨大な労働力のいる人口ボーナス時期があった。
* これまでは経済成長に好適な時期だった。
2) しかし中国の出生率が急速に低下して、史上未曽有の急速な高齢化が進むだろう。
* 人口13億の国で人口の均衡を取り戻すことなど、もはや不可能である。
3) 中国経済は賢明な形で自由化された。これは西側多国籍企業の経営者たちの決定だ。
* 中国共産党が素晴らしい計画を持っているとは信じられない。
4) 中国での国内総生産の4~5割という投資率は投資の水浸し状態というべきである。
* スターリン時代のロシアの過剰投資を連想させる。
5) 中国の生活水準は上昇し、政体も自由主義的になってきている。
* これまでの中国がよい方向に変遷してきたのは明らかである。
6) しかし中国国内の格差がすさまじく、平等主義的な中国の家族構造と相容れない。
* 社会を不安定化させる要因になっている。
7) 現在の中国の対外政策に関する態度は、とても不安を抱かせる。

以上のように的確な分析を示しながら結論は[分かりません]。[すでにいくつもの予言が当たっているのですから、私としては、中国について無益なリスクを冒して、予言者としての自分のイメージを台無しにするような真似はできませんよ]と答えています。

この本で日本との関係が、[これまで予想もされなかった位置を占めるようになった]、[日本は、私にとって一つの思考の極、私の知的拠点の一つになった]と語っています。今後に期待しつつも、トッドという学者を振り返る時期になったと言うべきでしょう。

 

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