■再び小松英雄のロジックと切れ味:『日本語を動的にとらえる』から(2/2)
1 アプローチが刺激的な小松の立論
小松英雄『日本語を動的にとらえる』(2014年刊)について、何が刺激的なのかわからないとのコメントがありました。理論構築へのアプローチが刺激的です。例えば係り結びの機能を[直後に叙述の明確な切れ目が来ることを予告]することだと通説を覆します。
「ナム/ゾ/コソ」は強調表現を作る係助詞と言われます。辞書での説明でも、そうなっています。山口仲美は『日本語の歴史』で[これら三つの表現形式に、意味的な違いはないのか]と問題提起をしています。辞書でも[三者の違いは、説明されていません]。
山口は「ナム/ゾ/コソ」の違いを[念を押すことによる強調、それと指し示すことによる強調、取り立てることによる強調という違い]としています。共通の機能として「強調」を置いています。小松は強調を否定的に扱い、切れ目の予告としたのでした。
2 語句の選択と組み合わせによる機能
山口は「竹取物語」の「もと光る竹なむ一筋ありける」を引き、念を押している文意だとします。変形して「もと光る竹ぞ一筋ありける」なら「竹」を指し示し、「もと光る竹こそ一筋ありける」なら他と区別して取り立てている…と意味による区分を試みました。
小松の説明はもっと切れ味がよいのです。助詞は機能語であり、機能とは[構文に関与すること]だと説明します。係り結びの機能に焦点を当てて説明し、係り結びが不要になった理由も、もっと簡単な形式で機能を代替できるようになったため…と説明しました。
語句の選択とその組み合わせによって、ある機能を持たせるという考えは、文法に限定されない基本的な考えです。いきなり完璧な説明ができないにしても、このアプローチは基本的な発想法になると思います。基本をないがしろにした説明では説得力がありません。
3 大野晋の学説批判
小松は日本語の文法体系を根本から疑います。大野晋の学説も全面否定です。[ハヒフヘホの音は、現代ではha,hi,hu,he,hoと発音している]との1974年刊『日本語をさかのぼる』の「P→F→hの変化」など、19世紀の説にそった初歩的な間違いだと指摘します。
上田万年が1898年に発表した「P音考」は[五十音図の同じ行は同じ子音だという思い込み]によるものであり、すでに否定されています。ところが大野は「P→F→hの変化」をそのまま受け入れ、[日本人の顎の骨の後退]によると理由づけているのです。
大野のような言語学の[重要性を認識していない言語学の素人論であったために、言語学の素人である大衆によくわかった]と小松は容赦なく言い放ちます。大野の1993年刊『係り結びの研究』も、おかしな見解の事例として小松に利用されただけでした。
4 安定している理論構築
『岩波古語辞典』に注目すべき大野の考えがあります。[古典語の終止形は現代語では形の異なるものがあるが(起く→起きる)、しかし、連用形ならば古典語も現代語も同形]であり、[これは、連用形が動詞の基本形であるという国語史的事実の反映]とのこと。
大野は[動詞を連用形(起き)で見出しとすれば][終止形を求めだす困難なしに動詞項目を引くことができる]と言うのです。これに対して小松は『土左日記』の「馬のはなむけしに、いでませり」の「いでませり」の連用形がなかなか見いだせない例を示します。
終止形であれば「いでます」だと予想がつきます。[動詞活用の基本形なら、それは、連用形ではなく、母語話者の直覚で反射的に回帰できる終止形]だと考えるべきでしょう。[理論の構築とその証明のしかた]がおかしいという指摘は否定できそうにありません。
1981年の『日本語の音韻』で小松は「まゐらす」から「ます」への変化を、文法的な意味への純化だとします。「→まらする→まする→ます」と「すり減らし」て、「さしあげる」の意味を消し「丁寧」語に純化したのです。小松の理論構築は安定しています。