■本物を偽物とする罪・偽物を本物とする罪:麻生三郎の問題提起

 

1 麻生三郎の問題提起

美術研究所の所長さんと数名でお話していたとき、麻生三郎画伯の話が出ました。この巨匠があるとき語った言葉を印象深く覚えておいででした。「偽物を本物だとするのと、本物を偽物だとするのと、どっちの罪が重いのか」という問題提起をしたそうです。

麻生は答えを聞く前に、偽物を本物とするよりも、本物を偽物とする方が罪が重い、と断定的に語ったということでした。絵をやる人なら、これ以外の答えはありません。麻生も答えの理由を語らなかったそうです。所長も当然のこととして理由なしに語りました。

偽物を本物だと騙って高額で売りつけたといった話を、どこかでお聞きになったことがあるはずです。世間の注目は、こちらにあるのかもしれません。所長があえて、この話をしたのも、不意を衝かれた感じがあったためでしょう。麻生の問題提起は重要でした。

 

2 本物を偽物とする罪の重さ

本物を偽物とする罪を、われわれはほとんど意識していません。絵の場合、ルールもなく自由ですから、目利きは少数派にならざるをえません。悪意でなくても間違うことがあります。偽物を本物とすること、あるいは本物に気がつかないことはありうることです。

本物がわかる人ならば、偽物などすぐにわかります。偽物であったならば、いつか誰かに気づかれることになります。どこかで誰かの検証が入り、本物として生き延びることが困難になります。偽物を本物としたとしても、そんなに長続きするものではないのです。

ところが本物が偽物とされた場合、その後に検証されないままに葬り去られる可能性があります。本物はそんなにたくさん存在するものではありませんから、こうして本物が埋もれたり消滅したりすることは、取り返しのつかないことになります。罪が重いのです。

 

3 捜し求めなくては本物に出会えない

『傍観者の時代』の話を思い出します。ドラッカーがシュナーベルのピアノのレッスンを見学したとき、自分にとって正しい方法がどんなものかに気づいたのです。<自分にとって正しい方式は、効果のあるもの、業績をあげている人たちを探し求めることだ>と。

学ぶ対象は少数ですから、「捜し求める」必要があります。<神は過ちを犯すものとして人をつくった。したがって人の過ちに学んでも意味はない。人のよき行いから学ばなければならない>とユダヤ教の知恵あるラビが語っていたとドラッカーは書いています。

その時々の流行に乗って、一時的なら偽物でも注目を浴びることがあるでしょう。しかし本物なら、長く生き延びるはずなのです。しかし、それだけでは不十分なようです。本物を見出す能力を、私たちは自ら養成していくことが大切だということなのでしょう。

「捜し求め」なくては、本物は見つかりません。見つけた本物から学ぶことによって、本物がわかるようになるはずです。ダイヤモンド職人が鑑定眼を身につけるために、本物のダイヤを見続けるようなものでしょう。私たちは本物を偽物とする罪を犯しがちです。

*付記:引用の『傍観者の時代』の文章は風間禎三郎訳です。

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