■最高の名文家:吉田秀和

1 最高の名文家

音楽を文章で表現するのは大変なことです。それがうまくいってしまうのは、実力の表れとしかいえません。吉田秀和は、最高の名文家でしょう。丸谷才一が、かつて現代日本最高の文章家は、吉田秀和と林達夫だと語っていました。まさにその通りですね。

『私の好きな曲』に、音楽ファンによく知られた文章があります。<ブラームスを少し調べていて、クラリネット五重奏曲にぶつかったのだが、その時、否応なしに、モーツァルトの同じ編成の室内楽の音が耳の底に響いてきた>…そう言ってから、続けます。

両者のちがいは、もう、どうしようもない。ブラームスの曲の、あの晩秋の憂鬱と諦念の響きは実に感動的で、作者一代の傑作のひとつであるばかりでなく、十九世紀後半の室内楽の白眉に数えられるのにふさわしい。けれども、そのあとで、モーツァルトの五重奏曲を想うと、「神のようなモーツァルト」ということばが、つい、口許まで出かかってしまう。

    

2 卓越性を表現するとき

飛びぬけた存在を表現するとき、すぐれたものを例示しながら、それさえ比較対象にならない…という言い方で、卓越性を示しています。<18世紀のごく普通のイディオムで語られているのだが、何ともいえぬ気品があり、雅致がある>と、その内容を示します。

これはレトリックとして、私たちもまねができます。圧倒的にすばらしいものを表現するとき、一般的に言ってすぐれたものを示し、その上で、それさえまったく相手にならない存在だと主張します。続けてその卓越性を一筆書きすれば、効果はあります。

しかし、その選ばれた言葉の適切さはちょっと例がないように思います。従来の日本語の文章にはない背景が感じられます。ヨーロッパ語との格闘による自分の文体の確立があったのでしょう。使われている単語自体は普通なのに、そこでの表現は卓越しています。

    

3 レトリックを学ぶ

「神のような」という表現を裏づける実体がどんなものであるのか? その音楽の様子を表現するとき、ここでもレトリックを使っています。感覚の両面性をもっていることを、動と静の融合という形式で示しています。繊細な表現です。

何と言う生き生きした動きと深い静かさとの不思議な結びつきが、ここには、あることだろう。動いているけれども静かであり、静穏の中に無限のこまやかな動きが展開されている。

吉田秀和は、かつて指揮者モントゥーのモーツァルトの演奏を表現する時に、ヴェルレーヌの詩を引用したことがありました。<軽やかで重々しく皮肉にまたやさしいふぜいでありました>。豊かさを表すときに、対立概念を融合させる表現形式がここにあります。

吉田秀和の言葉の選びかたは、耳がよいと言うべきものでしょう。そのため、ため息が出るような文章が生まれています。ときどき立ち止まって、この人の文章の形式がどうなっているのか、ふりかえってみたくなります。圧倒的ですが、魔法ではなさそうです。

     

This entry was posted in 一般教養. Bookmark the permalink.