■述部の再定義:主語中心主義と述部の概念

 

1 主語中心主義の発想

外国人向けの日本語学習テキストを読んでいたら、はじめに述部という用語が出ていました。述部とは、「主語ではない部分」とあります。何だか懐かしい気持ちになる定義です。主語中心の考え方に従うなら、述部をこのように定義したくなるのかもしれません。

実際のところ全ての文で、主語がピタッと決まって、それ以外の部分が「述部」になるということはありません。まず単文が前提のはずです。さらに接続詞を除外します。「今日、私は学校に行きました」なら、「学校に行きました」が述部なのでしょう。

主語があって述部があるという考えから、日本語を体系化して考えているようです。しかし、日本語の特徴は、述部が各要素を束ねる構造になっている点にあります。日本語の構造を考えるとき、述部を中核に考えるべきだろうと思います。

では述部という概念をどう定義すべきでしょうか。簡単には定義できないはずです。その前に、主語という概念がどんなものであるかが問題になります。主語中心主義でないなら、主語をどう位置づけるかが問題になります。

 

2 主体と述部の関係性

私が想定している主語の概念は、述部の主体であるというものです。主語という言い方をするよりも、主体と言うほうがすっきりします。主体と述部の関係性から主体も述部も決まる…と考えます。

需要と供給の関係から取引の価格と数量が決まるように、主体と述部の関係が決まります。「このクリームは肌にやさしい」という文の主語と述語なら、「クリーム」と「やさしい」になるはずです。しかし、「クリームはやさしい」では関係性が不十分です。

主語と述語でなく、主体と述部と考えて、「主体」+「述部」が文になる関係が必要だということです。先の例文の主体と述部はどうなるかと言えば、主体は「このクリームは」となり、述部は「肌にやさしい」となります。

主述関係という場合、①「主体」+「述部」が文になること、②「述部」に対する「主体」の関係があること…が条件になります。こうした発想から「述部」の概念を考えます。この点、「述語」という概念は、不便なところがあります。なぜでしょうか。

 

3 述部の再定義が必要

「話をしました」という場合、これを述部だといえば、すっきりします。「しました」を述語と考えても、あまり意味がありません。独り立ちがむずかしい語の場合、複合化します。それによって、主体が欠落しても述部だけで事足りる存在になります。

「雨が雪に変わる」という場合、述語と言われると「変わる」と言うしかないでしょう。しかし「雨が変わる」というのは不安定です。この場合、「雪に変わる」が述部であると考えると、何が「雪に変わる」のか明確になります。「雨が」が主体となります。

最初の例文「今日、私は学校に行きました」の場合、「私は」「行きました」になります。「行きました」の主体が「私」であるのは明白でしょう。「学校に」は述部の目的地です。行為の文の場合、何をしたかがわかるならば、行為の語だけで述部になります。

行為の場合、「行った」「行かない」で事足りますし、状況がわかっている場面では、「行ったの」「行かないよ」というやり取りがかえって自然です。文末にあって、文の各要素を束ねる安定した概念として、述部の再定義を行う必要があるように思います。

 

カテゴリー: 日本語 パーマリンク