■日本語文法の基本構造:『日本人のための日本語文法入門』を参考に

 

1 「主題と解説」の構造

学校文法という言い方に対して、日本語文法という言い方があるようです。原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』は、学校文法とは違った日本語の文法の本です。かつて研究者から無視された三上章の考えが、この本のベースになっています。

学校文法の場合、主語を重視します。一方、日本語文法の考えでは、主語は重要ではないと考えます。「母が台所で料理を作る」という文の場合、<「母が」も「台所で」も「料理を」も皆対等な関係で述語と結ばれている>ということになります。

日本語文法では、日本語が「主題と解説」という構造になっていると考えています。助詞「は」をつけると主題化するのです。「父親は台所でカレーライスを作った」という文ならば、「父親は」「台所では」「カレーライスは」…と主題化できるといいます。

 

2 体系性が不十分

この日本語文法が、一貫性のある体系になっているのかどうか、少しチェックしてみましょう。この本では、必須成分と随意成分という概念が示されます。この説明に使った例文がなかなか良いのです。助詞が大きな役割を果たしているのがわかります。

「ティジュカでジョアキンがフェジョンをシキンニョと食べた」というのが例文です。「ティジュカで」は場所、「ジョアキンが」は主体、「フェジョンを」は対象、「シキンニョと」は相手…ということになります。このうち削除できない成分が必須成分です。

<「ティジュカで」という成分がなくても、文として問題があるとは感じられませんね>…という風に削除していくと、<「ジョアキンが」と「フェジョンを」は削除することのできない必須成分であることがわかります>…ということになります。

これは具合が悪いですね。原沢は「母が台所で料理を作る」という例文では、<「母が」も「台所で」も「料理を」も皆対等な関係>と書いていました。しかし必須成分と随意成分とがあると、各成分が対等でないことになります。体系性は不十分のようです。

 

3 必須成分の中の「主役」

「ティジュカで…」の例文でも、「ティジュカで」「シキンニョと」は随意成分であり、必須成分の「ジョアキンが」「フェジョンを」と、対等の成分ではありません。そればかりか、「ジョアキンが」と「フェジョンを」の関係も対等ではないのです。

「小泉さんがブッシュさんをなぐった」と「ブッシュさんが小泉さんになぐられた」という例文をあげて、前者では<「小泉さん」が主役>で、後者では<「ブッシュさん」が主役>だと原沢は言います。「小泉さんが」と「ブッシュさんを」にも強弱があります。

原沢は、述語と結びつく各成分を対等だといいながら、必須成分と随意成分とに分け、そこに強弱を認め、さらに「主役」という用語を使って、必須成分の中にも強弱があることを認めています。言うまでもなく主役は、「主題と解説」という構造とは無関係です。

 

4 述部が圧倒的な存在

日本語は、各要素のうち主語だけが際立っている言語ではありません。その意味では、日本語文法で、主語という用語を使用しない方がよいのかもしれません。「ティジュカで…」の例文で、原沢は「主体」という用語を使っていました。これがよいでしょう。

「必須成分>随意成分」という関係が成り立ち、さらに「必須成分」の中も「主役」とそうでないものに分かれます。「ティジュカで…」の例文で使っている「対象」という用語を使うなら、「主体>対象」という強弱の関係が成り立っていることがわかります。

こうした成分間の強弱を考えると、日本語の基本構造が見えてきます。文中で一番強い要素は、英語の場合「主語」であり、日本語の場合「述語」です。「遅れてすみません」のように複合語も可能なため、「述語」というより「述部」と呼ぶべきでしょう。

述部が各成分と結びつくことによって、文を構成していくのが日本語の基本構造です。述部と結びつく各成分には相対的な強弱があり、「主体」が一番強い成分だということになります。こうした基本にそった文法体系が必要だろうと思います。

 

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