■日本の古典文学入門:山口仲美『日本語の古典』
1 すばらしい古典入門書
ときどき文学の話をするためか、私が日本文学に造詣が深いと勘違いして、日本文学のよい入門書はないかとお聞きになる人がいます。趣味でしかありませんので、何がよいのか、あまり自信がありません。ただ、日本文学史なら定番があります。
小西甚一『日本文学史』とドナルド・キーン『日本の文学』です。それぞれ膨大な『日本文藝史』と『日本文学史』に発展しています。ただ、実際の古典の内容を知るには、これらはちょっと物足りないものではあります。
二つの小さな本は、文学の流れから、日本史を見渡すことができるので貴重です。小西甚一の『日本文藝史』は、よくわからないながらも、全巻読みました。これはおそるべき本だと思います。しかし、一般向けではなさそうです。
それでお薦めしたのが、山口仲美『日本語の古典』です。日本語で書かれた代表的な30作品を紹介しています。古事記、日本書紀から始まって、南総里見八犬伝、春色梅児誉美まで、作品選定も妥当だと思います。
題名が、日本語の古典となっているのは、古典文学以外も入っているためです。風土記があったり、徒然草、風姿花伝はもとより、翻訳にあたる伊曾保物語、蘭学事始も入っています。一つの作品の解説が7ページ程度の分量なのに、内容は充実しています。
2 読む気にさせる記述形式
この本では、言葉や表現から作品にアプローチをして、一作品ごとにテーマを設けて紹介しています。日本の古典がほとんど読まれていない現状を、もったいない、と山口仲美は考えています。古典を読む効用として、2つのことをあげています。
第1に、現代とは違う価値観や習慣を示してくれ、それによって相対化の視点を与えてくれるという点です。第2に、古典には日本人の価値観や感性、表現方法が詰まっていて、消化吸収されやすく、それが養分になって、創造性の芽を育んでくれるいう点です。
この本は、古典を読む気にさせます。『竹取物語』の作者は不明ですが、<男性であることは確か>。「青反吐」「糞」だの粗野な言葉を使うのは平安時代では男性しかいないから、その上、漢文訓読のときだけ使用する言葉が使われているから、と論証します。
かぐや姫が少しずつ人間的になっていく変化を、言葉からも裏づけていきます。月に帰る日が近づいたとき、「御心惑ひぬ(=心が乱れた)」とあります。負けん気一点張りだった心が変化しています。これを山口は、繊細な感情をもつ人への成長と見ています。
あるいは、『枕草子』で有名な「春はあけぼの。ようようしろくなりゆく山ぎは」という一節の意義が指摘されています。最も情緒ある事柄を時間という観点から切り取っていくことは、清少納言がはじめて行ったことで、斬新で後の作品にも影響を与えています。
時刻を彩る具体的な風物を例示している点、その風景描写を散文世界に持ち込んだのも、この作品が初めてだそうです。「夏の闇夜にたくさんの蛍が乱れ飛ぶ姿は幻想的ですばらしい」…こうした描写が、その後の散文に取り入れられるようになったのです。
3 『源氏物語』の卓越性
この本で、あっと思ったのが、『源氏物語』の一文の長さについての指摘でした。源氏を構成する文は、一文が20~99字と、100字以上の長文が基調になっています。その中に、<突然、10文字以下の短文が入り込んで、文章をきゅっと引き締めるのです>。
平均136字の長文、平均50字の中文が続いた後にいきなり「御局は桐壺なり。」というわずか八文字の短文をすっと入れて、袋の口を閉めるように、文章を引き締める。なんか計算しつくしたような文章だなあ、と感じたのです。
計算された文章だと思って調べると、<さまざまな情景描写が入り込んでいても、一つとして重なることなく、それぞれ見事に個性が出ている>のです。<登場人物は、その人物を象徴するような喩えで形容され、描き分けられています>。
例えば、「春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地す」というのは、嵐の翌朝、突風で御簾がめくれあがったときに見た姿を喩えたものです。「春の曙」という時刻指定、「霧の間」という空間指定が、目撃の状況と響きあっています。
こうした<周到に作り上げた喩えで、登場人物の個性を描き分けてしまうという方法は、『源氏物語』以前の作品や以後の作品を調べてみても、まったく見られない>とのこと。『源氏物語』の卓越性を再確認させてくれます。
古典であっても、ある程度のスピードをもって読むべきでしょう。その意味で最初は、現代語訳で読むのがよいと思います。あわせて入門書や解説書で作品の意義を知るのがよいと思います。この本は優れた入門書です。気に入った古典がきっと見つかるはずです。