■清水幾太郎『論文の書き方』再読:文章の基本原則を示す

 

1 明確を価値とする

清水幾太郎の『論文の書き方』をまた読んでみました。最後まで読んで、その後、何度も行ってきて、また帰ってきています。たくさんの断片が、いろいろなことを考えさせてくれます。この本は、卒業した気にさせてくれません。

たとえば、「主語を大切にしよう」という項目があります。<日本語は、主語のない文章が平気で通用する世界である。何が主語なのか、いくら考えても判らない><文章さえ行われる世界である>…とあります。めずらしくない指摘でしょう。

ところがこの文章の少しあとに、<日本語の世界では曖昧になり易い肯定と否定との観念>が、主語の問題と関係がある…と言われると、その通りだと思いながら、新たに主語の問題を考える必要があるのに気づきます。そして、以下の文章につながります。

肯定も否定も、主語がなければ成り立たない。主語が明瞭であることと、肯定や否定が明瞭であることとは切り離せない関係に立っている。主語がハッキリした、肯定か否定かがハッキリした文章を書くというのは、書く本人が責任を負うということである。

明確な文章がよいという価値がここにはあります。<明確な肯定や否定を避け><相対立する意見の間のバランスをとりながら><物判りのよさそうな、しかし、差し触りのないことだけを言う>、こういう態度を否定しています。

 

2 人為的秩序が必要

この本で、一番有名になったのは、「が」の問題でしょう。助詞の<「が」の用途が甚だ広いこと、従って、これが甚だ便利な言葉であること>を指摘しています。明確を価値とする清水幾太郎が、この先どう言うのか、想像できるでしょう。

<「彼は大いに勉強したが、合格した。」という場合は、大いに勉強したという事実と、合格したという事実とが同時に指摘されている>。こうした、頭の中で処理しない文を排除すべきであるという主張になります。次のように書いています。

「彼は大いに勉強したのに、落第した。」「彼は大いに勉強したので、合格した。」こう書き換えると、「が」でつないでいたときとは違って、二つの句の関係がクッキリと浮かび上がって来る。

明確を価値とする以上、「句の関係がクッキリと浮かび上が」る文がよいのです。雑然とした状態のまま、あちこちにあるものを、そのまま次々と言葉に連ねていくことへの拒否反応があります。清水幾太郎の考えは、明確です。

文章を書くというのは、それによって、一つの混沌とも見られる空間的並存状態に新しい秩序を与える働きである。この秩序は人間が作ったものであるから、当然、人為的なものである。人為的秩序によって自然的状態を置き換えるのである。

 

3 文章は建築物である

人為的秩序を作るということは、自然の花や木が育っていくのとは違って、その人が選び出した要素を並べていくことです。選び出された<A・B・C・D…が構造的関係に置かれるということ>…です。

その前提として、清水は「経験と抽象」との行き来を提唱します。経験と抽象の<往復交通の誠実な努力は、論文を書く日本人にとって、片時も忘れてはならぬ前提である>…と書いています。具体的には、以下の往復になります。

経験は野放しにされないで、抽象的観念の助けを借りて自らを組織化することが出来、自らを高度化することが出来る。他方では、観念や観念のシステムが経験のテストを経て豊かになることが出来、成長することが出来る。

構造化の基本がここにあります。こうして出来上がった構造的関係ならば、<諸要素が組み合わされて、一個の建築物にな>っているはずです。まさに、<建築物は人間の作るものである>…ということになります。だからこそ、文章表現が大事なのです。

A・B・C・D…が建築物の諸要素であるのなら、それらはセメダイン程度の「が」によってでなく、ボルトのような接続詞や接続助詞によって堅く結び合わされねばならぬであろう。

1959年に書かれた本ですから、古いところもあります。しかし、骨格に当たる部分は古びていません。文章についての基本原則が明確に書かれています。もっとこれらを展開して、具体的なルールにしたいと思いながら、読みました。

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