■ドラッカーの考え方:中道という概念
▼ドラッカー:極端を排除する考え方
ドラッカーは、極端な考え方をよしとしません。高い目標を求めながら、しかし、目標は高ければ高いほどよいという考え方をとりません。たとえば、『明日を支配するもの』で、≪目標は難しいものにしなければならない≫と書いています。
しかし一方、『経営者の条件』では、≪確かに人生には,成果をあげるエグゼクティブになることよりも高い目標がある≫と、より高い目標の存在を認めながら、高い目標だから価値があるという考えをとっていません。
≪成果をあげるエグゼクティブの自己開発は、真の人格の形成でもある≫と、高くないほうの目標を積極的に評価しています。意外かもしれませんが、≪目標があまり高くないからこそ,実現も期待しうるというものである≫…とまで書いています。
なぜドラッカーは、こうした考え方をとるのでしょうか。すぐに思い浮かぶのは、バランスということでしょう。ドラッカーは、バランスを大切にしました。ただ、極端を排除する考え方には、もう少し積極的な意味があるように感じられました。
▼中道という概念
あるとき、ドラッカーの考えを理解するのに、仏教の中道という概念が、補助線になるのではないかと思いました。中道というのは、ブッダの最初の教えだそうです(岩本裕『仏教入門』)。快楽主義と苦行主義の宗教を否定した上で、出てきた概念です。
まず快楽主義に走ってはいけない、ということはわかります。問題は、どうして苦行主義がよくないのかということです。いまだに苦行を乗り越えることに価値を見出す雰囲気はあるように思います。
おそらく一番のポイントになるのが、修行の際に、≪過度な緊張はかえってわたしたちの努力・修行を阻碍する≫からという点でしょう( 増原良彦『釈迦の読み方』)。これは人間性を洞察した考え方だろうと思います。
ドラッカーの考え方の根底にも、人間重視の思想があるように思います。ドラッカーが、厳格すぎず安易に陥らない立場をよしとするのも、極端に走ると、成果があがらなくなるからという理由が考えられます。
こんなことを5年ほど前、懇親会の席で上田惇生先生にお話したことがありました。すぐに、「何によって覚えられたいか」も、それだとおっしゃいました。やはりそうですか、などと懇親会の終わりまで、はなし通しになりました。懐かしい思い出です。
▼「何によって覚えられたいか」の効果
ご存知のように、「何によって覚えられたいか」という問いは、ドラッカーが大切にしているものです。自分の存在をどういうものとして記憶されたいのか、ということです。これに対して、厳格な考え方をとる人は、この問いがおかしいと感じるということです。
厳格な立場からすると、他人の目など気にせず、人がどう評価しようが、自分がやるべきことをやるのが正しいということになります。そうじゃないんだ、全然わかってない、と上田先生はおっしゃいました。まさに、ここが大切なところです。
この問いかけは、どういう構造をもったものでしょうか。誰に覚えられたいのでしょうか。自分にとって大切な人に、自分のことをどう記憶してもらいたいかということです。自分にとって大切な人を設定することによって、その方向に行けるようになるのです。
将棋の米長邦雄は、伸び悩んでいる若手棋士のことを心配して、相談に乗ろうとしたそうです。ところが若手棋士の母親は、子供の成績に無関心な人で、会いたくないという返事だったので驚いています。そして次のように書いています(『人生 一手の違い』)。
強くなり、勝負に勝ち、昇段していく当人がうれしいのは、誰しも同じである。しかし、自分の親が、それを喜んでくれるのと無関心なのとでは、天と地ほどの差がある。
誰かに喜んでもらえるのが励みになる、それが、神ならぬ人間の素直な心情だと思う。
ドラッカーは、人の評価を排除しません。誰かに評価されたいという気持ちは、人間の自然な感情でしょう。自分が大切に思っている人に、どう評価されたいか、と考えていくほうが,確実堅実な方法だというべきです。だからこそ、この問いを大切にしています。
ドラッカーの考え方は、いわゆる中道をとります。それは人間性に根ざした思想です。成果をあげるものであるかどうか、フィードバックできるものになっています。