■安崎暁コマツ元社長のお話:講演録1/3

2014年7月10日、システムイニシアティブ研究会で、安崎暁コマツ元社長のお話をお聞きしました。以下、そのはじめの部分です。メモを元に再構成しています。

▼コマツの創業者 竹内明太郎

世の中のため、人のためにささやかなことを、という気持ちで、中国とのおつき合い、故郷の徳島県とのおつき合いを大切にしてきました。日中友好のために行動を起こしている人たちと知り合い、その中で、この会の片貝さんと知り合うことになり、お話をするように言われて、ここに参った次第です。

『日本型ハイブリッド経営』という本を2009年に書きまして、エンロンの事件があって、当時、金融が先に行き過ぎていることを注意できないかと考えていました。これを中国で出版しようかと思っています。まだ中国では、コンプライアンスまで目がいっていない状態です。

コマツという会社は、竹内明太郎が創業しました。コマツは創業のときから、工業技術の革新をしなくてはならない、国産化しなくてはならないと考え、そのためにはエンジニアが必要だから、人材育成のために、教育が必要だと考えました。

95年前のことですが、石川県の小松市と高知に工業高校を作り、現在も高校が現存しています。また、大隈さんに頼まれて、早稲田の理工学部を作るため、財政支援をしています。あるいは人材育成のために東大生、京大生を留学させ、戻ってきた学生たちに仕事を与えてもいます。国内は鉱山がないから、外国を狙えと、当時は、上海とかインドに行けと言っています。

 

▼「90年代委員会」

コマツという会社は、人材育成とグローバリゼーションを重視する姿勢を創業者から受け継いでいます。私は8代目の社長に当たります。それまで社長になりたいわけではなかったのですが、1995年に社長になりました。

社長になる前、1990年代、コマツも大企業病になったという感じを持ちました。専務か常務のころだったか、すべての事業所に「90年代委員会」を作りました。21世紀にどういう会社になっていたらよいのか、そのために、この10年間でどんなことをしておかなくてはいけないのか、会社の中で考えていました。

当時は、60歳定年ですから50歳以上は出なくてよいと言って、若い社員中心に2~3年やっていました。会社全体の全体最適という考えがないと感じていました。人事部は人事部、経理部は経理部のことばかりで、これでは国の省益優先と同じで、全体のことを考えてない。ここでの議論をベースに会社全体の全体最適という考えが出てくるように、会社の体質改善をしなくてはいけないと考えました。

 

▼人材育成と情報武装

グローバル時代のスピードは違います。日本の会社は世界で優勝するスピードと柔軟性を、とても持っていません。大企業病の予防にと、会社の考え方を変えていこうと決心しました。売上を伸ばし、商品を開発して利益をあげることは、こう言っては何ですが、もう私はやってきた、今後は、人材育成と情報武装をしようとして、社長方針を示しました。情報武装をちゃんとやらないと、どうにもならないと思っていました。

仕事をやらされているという感覚の社員を創造的な方へ、自分の仕事を役者のつもりでやるようにと、そういう方向にもって行くことにしました。パンフレットを作って、それを英文にして、世界中の事業所に行って説明しました。<夢を蒔く>…そういう仕事をしておくと、あとでいいことがあるよと。

情報武装と人材育成をベースにしていくと、シュンペーターが言うように技術革新が起こる。それだけでなくて、どういうときでも自己革新をしていくことが大切だ、ということです。

2回目と、3回目に続きます。)

 

 

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