■現代の文章: 日本語文法講義 第30回 「現代の日本語の文章の登場:その目的・目標・手段」(2023年1月13日)

       

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1 20世紀に成立した現代の日本語の形式

日本語の近代化は、明治維新以降、急速に進んだものです。どのくらいの変化があったのか、具体的な事例を見ると一目でわかります。岡田英弘が『漢字とは何か』で、坪内逍遥「当世書生気質」(明治18年)と尾崎紅葉「金色夜叉」(明治30年)をあげていました。

▼さまざまに。移れば換る浮世かな。幕府さかえし時勢(コロオイ)には。武士のみときに大江戸の。都もいつか東京と。名もあらたまの年毎に。開けゆく世の余沢(カゲ)なれや… 坪内逍遥「当世書生気質」(明治18・1885年)

▼未だ宵ながら松立てる門は一様に鎖籠(サシコ)めて、真直(マスグ)に長く東より西に横よこたはれる大道は掃きたるやうに物の影を留めず、いと寂さびしくも往来(ユキキ)の絶えたるに、例ならず繁き車輪(クルマ)の輾きしりは、或は忙(セワシ)かりし、或は飲過ぎし年賀の帰来(カエリ)なるべく… 尾崎紅葉「金色夜叉」(明治30・1897年)

19世紀末の時点で使われていた日本語の文章は、現在の日本語とはまったく違った文章でした。ここに漱石と鴎外が登場してきます。夏目漱石『吾輩は猫である』(明治38・1905年)と森鴎外『ヰタ・セクスアリス』(明治42・1909年)を岡田はあげました。

▼吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事丈は記憶して居る。 夏目漱石『吾輩は猫である』(明治38・1905年)

▼金井湛君は哲学が職業である。
哲学者という概念には、何か書物を書いているということが伴う。金井君は哲学が職業である癖に、なんにも書物を書いていない。 森鴎外『ヰタ・セクスアリス』(明治42・1909年)

ことに夏目漱石の文章は、その後の日本語に決定的な影響を与えました。漱石と鴎外とを比べると、日本人は圧倒的に漱石の文章を読んできたのです。1984年に司馬遼太郎は「日本の文章を作った人々」という講演録で、夏目漱石について語っています。

▼漱石に至って、初めて文章日本語は成立します。『坊つちゃん』のような軽妙な小説も書ければ、『こゝろ』のような深刻な問題も書ける文章を開発した。恋愛も書けるし、文学論もできる文体です。漱石は偉いですね。日本語の恩人だろうと思います。 p.386 『司馬遼太郎全講演[2]』

20世紀に入って、現代の日本語の形式ができてきました。岡田が注記するように、[言文一致が進み、みんなの話しぶりをそのまま写せるようになったから、そんな日本語ができた、というのではない](p.280:『漢字とは何か』)。作り出したのです。

どうやったのでしょうか。[彼らは西洋語の文章を下敷きに、新しい日本語をつくり上げていった](p.280)のです。新しい西洋の語彙を日本語にしながら、[語彙も文体も西洋をそっくりなぞって](p.281)、新しい日本語を作りました。それが拡がっていきます。

▼近代日本に共通語としての日本語が生まれたのは、日本人が義務教育で書き言葉を教えられたからであり、新聞などを読むことでみずから学んだからであり、軍隊生活でたたき込まれたからである。日本語は文字を学ぶことを通して一般化したのである。 p.282:『漢字とは何か』

こうしたことは日本語に限りません。岡田は言います。[このように文字の力で言葉が作られてゆくと言うのは、なにも日本に限った話ではない。フランス語もドイツ語も、近代になって完成され、国民に強制されていった言葉である](p.282)。

現代の日本語の場合、基礎となる形式の成立が20世紀に入ってからだということです。そこから新しい日本語が一般化されていきました。フランス語や英語に比べると、ずいぶん遅れて近代的な散文が生まれたことになります。

    

      

2 簡潔・的確で論理的な言葉

文明開化、和魂洋才、富国強兵、殖産興業といった言葉を聞くだけで、明治維新以降、日本が近代国家建設のために苦労してきたことがわかります。このとき西洋文明から学ぶ必要がありました。司馬遼太郎がメッケルの言葉を伝えています。

▼明治十六年に日本に陸軍大学校ができました。二年後に、ドイツ参謀本部の大秀才のメッケル少佐が招聘されます。
まずメッケルが言った言葉が、
「軍隊のやりとりの文章は簡潔で的確でなければならない。日本語はそういう文章なのか」
というものでした。そのメッケルの言葉を受けて、軍隊における日本語がつくられていくのです。 (『司馬遼太郎全講演[2]』朝日文庫 p.388)

明治16年というのは西暦で言えば1883年です。その数年後には大日本国憲法ができます。1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行されました。ドイツ帝国(プロイセン)の憲法を参考にして作られたものです。

時代の推移を見ると、近代的な日本語散文の基礎が20世紀初めに確立できたのは、早かったのかもしれません。このとき日本語への要請がありました。「文章は簡潔で的確でなければならない」というメッケルの言葉、あるいはもっと一般化した言葉での要請です。

岡田は[日本語の散文の開発が遅れた根本の原因は、漢文から出発したからである]、漢文の[訓読という方法で日本語の語彙と文体を開発したから、日本語はいつまでも不安定で、論理的な散文の発達が遅れた](p.314:『漢字とは何か』)と書いていました。

いまにいたるまで、論理的な文章を記述するようにという要請が続いているのです。こうした要請に対して、漱石たちが作り上げた新しい日本語はまだ完全なものではありませんでした。昭和9・1934年に出た谷崎潤一郎『文章読本』に、このことが記されています。

▼たゞこゝに困難を感ずるのは、西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述であります。これはその事柄の性質上、精緻で、正確で、隅から隅まではっきりと書くようにしなければならない。然るに日本語の文章では、どうしてもうまく行きとどきかねる憾みがあります。  (中公文庫:p.69)

日本語が目標としていたのは、まさに[西洋から輸入された科学、哲学、法律等の、学問に関する記述]ができることでした。[精緻で、正確で、隅から隅まではっきりと書く]ことができる日本語が必要です。簡潔・的確で論理的な文章ということになります。

ヨーロッパ言語と同じことが記述できる言葉にしたかったということです。日本語を欧米先進諸国の言語と比べて遜色のなく簡潔・的確に内容を伝えることができる言葉にすること、論理的に内容が伝えられる言葉にすることが目指すべき目標でした。

簡潔・的確で、論理的な日本語が、軍隊でも使え、学問でも使え、ビジネスでも使えるならば、日本語は近代的な言語になったと言えるでしょう。1934年に出版の『文章読本』で、谷崎は日本語はまだ近代的な言語になっていないと指摘したことになります。

   

  

3 20世紀中に確立した新しい日本語

日本語は、その後どうなったのでしょうか。谷崎が1934年に書いたレベルのままだと思う人はいないでしょう。敗戦をはさんで、大きく状況が変わりました。1976年、渡部昇一は「日本語の変容をもたらしたもの」(『レトリックの時代』所収)で書いています。

▼最近『ヴィトゲンシュタイン全集』が出たが、そのうちある巻のごときは、原文よりもよくわかる。これは昔はほとんど考えられなかった現象であった。谷崎潤一郎も『文章読本』のなかで、翻訳書のわかりにくさを指摘し、そういう場合は原文を見るとわかると言っている。しかし現在ではそういう翻訳は数少ない。翻訳技術もさることながら、日本語自体が変容をとげたからである。 p.244 『レトリックの時代』講談社学術文庫

谷崎が『文章読本』で日本語について語っていた頃とは状況が違ってきました。哲学書のように、翻訳するのが難しい書物でも、よくわかる日本語で記述できるようになったということです。日本語が変容してきて、それが可能になったといえます。

1975年、司馬遼太郎は「週刊誌と日本語」というの講演で[共通の日本語というものを、国語の先生も、作家も、ジャーナリストも、みんなでつくりつつあるというのが、いまの私の認識であります](p.23:『司馬遼太郎全講演[2]』朝日文庫)と語っていました。

司馬の観察では、1970年代に共通の日本語をつくりつつあったのです。それが1982年の講演になると、「文章日本語の成立」という題目になります。日本語散文の共通語ができてきたということです。司馬は講演の締めくくりで以下のように語っています。

▼共通語ができあがると、だれでも自分の感情、もしくは個人的な主張というものを文章にすることができる。文章にしなくとも、明治以前の日本人と違って、長しゃべりをすることができる。そういうようなスタイルが、共有のものとして、ほぼわれわれの文化の中には成熟したのだろうという、生態的なお話を今日は聞いていただいたわけであります。 p.198 『司馬遼太郎全講演[2]』朝日文庫

司馬は日本語を観察して、[ほぼわれわれの文化の中には成熟したのだろう]という判定を下しました。まだ完成とは言えないまでも、かなりのレベルまでは来ているということです。21世紀に入って、佐藤優は以下のように語っています。

▼シンガポール国立大学とか、中国の精華大学では、国際金融や物理学の授業は英語でやっていますが、それには歴然とした理由があるんです。グローバル化の影響では決してありません。英語のテクニカルタームや概念を、中国語のマンダリン(北京語)に訳せないからです。つまり、知識・情報を土着化できていない。その点、日本語で情報を伝達できる力というのは、日本が誇れる資産であり、長年の努力の成果だということを、再認識すべきですね。 p.66 『悪魔の勉強術』(文春文庫版)

漱石からおよそ100年かけて、日本語は成熟してきたということになります。用語も文体も整備されて、欧米の言語と同じことが記述できる言葉になったのです。日本語で簡潔・的確に、論理的に内容が伝えられる条件が整ったと言えます。

      

      

4 新しい日本語を成立させる目的・目標・手段

日本人には、日本語を近代化させるという目的がありました。日本を近代化させるために言葉を近代化させることが不可欠だったからです。その目的にそって日本語を変革してきました。簡潔・的確な記述、論理的な記述ができるようにする必要があったのです。

日本語が近代化された場合、日本語で欧米の言葉と同じことが記述できるようになるでしょう。これが日本語の進むべき目標でした。もっと具体的に言えば、学問でもビジネスでも、日本語で世界的にみて高い水準のやりとりができるということです。

21世紀になるまでに、その目標は達成されたと言ってよいでしょう。日本語で全ての学問の読み書きができるようになったのです。日本語が少しずつ変容してきました。20世紀前半では、まだ学術的な記述はできませんでしたが、現代ではそれが可能です。

この日本語の変化はどのように起こってきたのか。岡田英弘の記していたように、漱石たちは[西洋語の文章を下敷きに、新しい日本語をつくり上げていった](p.280:『漢字とは何か』)のでした。それを洗練し、成熟してきたと考えられます。

[語彙も文体も西洋をそっくりなぞって](p.281)、新しい日本語を作ったということです。これは日本語に限ったことではありませんでした。渡部昇一は『レトリックの時代』所収の「日本語の変容をもたらしたもの」で、ラテン語の例を上げています。

▼中世ラテン語の特質を解明した碩学フリードリッヒ・パウルゼンの言葉を私に思い出させる。彼はローマの学問がギリシアの哲学を吸収しようとして1000年近く努力した結果、古典ラテン語は中世ラテン語に変容したという。つまり、「ギリシア哲学をくぐったラテン語」が中世ラテン語なのであり、それによってのみ、スコトゥスやアクイナスの精密な哲学が可能になり、かつ、深い心情を表現する宗教史も可能になったという説なのである。 『レトリックの時代』:講談社学術文庫 pp..244~245

岡田が言う通り[十九世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語、ことに英語を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確立することになった](p.314:『漢字とは何か』)ということです。

日本語において[字と字のあいだの論理的な関係を示す方法](p.314:『漢字とは何か』)を確立させないといけません。[漢字には名詞と動詞の区別もなく、語尾変化もない](p.314)ですから、漢字ではなく、ひらがなで記述される部分がポイントです。

助詞を中核にしたひらがなで表記される部分によって、[字と字のあいだの論理的な関係を示す]ことになりました。「は」「が」「なの」「こと」「です」「ます」「である」など、ひらがなが大切です。ひらがなで文法構造を明確にすることが必要になります。

日本語を近代言語とする目的は、日本が独立し発展するためでした。目標は、欧米言語に遜色なく、簡潔・的確で論理的に記述できる日本語を確立することです。日本語で学術的な研究もビジネスもできて、それが世界的なレベルになることが目標でした。

21世紀になるまでに、それが可能になったのです。どんな手段を使ったのかと言えば、英語を中心としたヨーロッパ言語のエッセンスを取り入れようと格闘したからです。その結果、日本語が変容し成熟化します。20世紀は日本語にとって画期的な世紀でした。

      

5 文法構造の中核となるもの

日本語の文法を学校で習ったかもしれません。これは通説的な日本語文法の体系とはかなり違ったものです。学校文法とも呼ばれる教科書に記述される日本語文法は、主語と述語を中核とした文法になっています。これは当然のことだったとも言えるでしょう。

岡田英弘は書いています。[文法構造のはっきりしたヨーロッパ語、ことに英語]において、文法構造の中核になっているのが主語と述語です。日本語でも主語の概念を取り入れようとしました。とはいえ日本語における主語ですから、英語の主語とは違います。

日本語の主語が英語の主語概念とおなじであるはずありません。日本語の主語概念を明確にすればよいはずでしたが、しかしそうなりませんでした。小池清治は『日本語はどんな言語か』で、主語廃止論を提唱して大きな影響を与えた三上章の見解に言及しています。

▼ここで論じられている「主語」は明らかに英文法の「主語」(subject)であるのだが、このような意味での「主語」は日本語にはないというのが、三上の主張である。これは全くその通りである。英語と日本語は異なる言語であり、一方の言語現象を基準にして、他の言語に全く同じ言語現象を求めることは、本来不可能なのだから当然なのである。
この論理に立てば日本語には「述語」(predicate)も同様に存在しえないはずなのだが、三上は「述語廃止論」は唱えていない。これは不思議な論法というべきだろう。 小池清治『日本語はどんな言語か』 p.125

【主語概念=英語の主語概念】≠【日本語の主語概念】という図式はおかしなことです。【主語概念:英語の主語概念・日本語の主語概念…etc.】という発想ではありませんでした。しかし三上の主張にはインパクトがありましたから、影響はいまも残っています。

日本語文法の通説的な見解では、もはや主語という概念を中核にすえられてはいません。日本語の文法を語るときに、主語という用語を使うと、かえって混乱する状況にあります。日本語は成熟しましたが、いまだに日本語の文法は確立していません。

では、どういうアプローチが必要でしょうか。まず、主語・述語の本来的な概念を考える必要があります。主語に関して言えば、【主語概念:英語の主語概念・日本語の主語概念…etc.】という発想が必要です。この点、わりあいシンプルだろうと思います。

本来の主語概念というのは、そんなに複雑なものではありませんでした。一言でいえば主体というべき概念です。実際、1982年版の『日本語教育事典』の「主語」の項目を執筆した佐治圭三の説明の冒頭は、以下のようになっています。

▼一般には、文の成分の一つで、述語の表す意味(種類、属性、状態、情感、存在、動作、作用・変化など)の主体を示すものを言う。体言(及び、体言相当語句)に助詞「が」、あるいは、「は」、「も」のついた形で示されるのが普通であるが …[以下省略] p.173 『日本語教育事典』1982年版

述語の主体が主語だということが一番の基本になっているのです。この点、英語学者である渡部昇一が『学問こそが教養である』でわかりやすく語っています。主語-述語の関係がどういうものか、以下のように言うのです。

▼「主語-述語」の関係こそが、文の本質であるということは、プラトンの『クラテュロス』以来の一番の基本でね。だから、何について何を叙述するかということなんですね、まずつかんでおくことは。
話そうとすれば、まず「何について話そうとするか」がわからないといけないわけで、それから「何を話すか」ですね。これだけ押えておけば、表現形式が日本語と英語で多少違っても、大筋においてはなんとか通るんです。 p.164 『学問こそが教養である』

「何について・何を叙述するか」というのが「主語-述語」の関係ということになります。叙述する部分が述語であり、その主体が主語だということです。日本語の場合、叙述する部分が文末に置かれています。日本語の重要な特徴だというべきでしょう。

      

      

6 主体・キーワード・文末

日本語の文章を読み書きする人にとって、「何について語られているのか、それについてどう語るのか」ということがわからなくては、文が理解できません。文が伝わること、理解できること、この点が一番の基本と言えるでしょう。

このとき文末が大切です。日本語の場合、文末において文の意味が確定します。文末が「…でない」とあればその前が否定され、「…かもしれない」とあればその前は確定的な話ではありません。叙述の部分が文の区切りに置かれるのは、わかりやすい形式です。

そのため文末が文のかなめ、文の区切りになります。文末が文の基本要素を束ねる形式をとっている点も、日本語の大切な特徴です。具体的な例文で見たほうがわかりやすいかもしれません。2022年12月26日の日経新聞社説の書き出しです。

▼政府は大学生の新卒採用に関するルールについて、専門性の高い人材の採用日程を弾力的に見直す検討を始めた。

この文の構造をわかりやすく理解するには、どうするのがよいでしょうか。「文の構造がわかるように区切りをつけてください」と言われたら、かなりの人が同じように区切るはずです。たぶん以下のようになるのではないでしょうか。

① 政府は
② 大学生の新卒採用に関するルールについて、
③ 専門性の高い人材の採用日程を
④ 弾力的に見直す検討を
⑤ 始めた。

「①政府は・始めた」「④…検討を・始めた」となります。②③は文末と対応していません。④と結合しています。②大学生の新卒採用に関するルールについての、③日程の、検討を・始めたということです。文の骨組みは【政府は・検討を・始めた】になります。

「始めた」の主体は「政府は」です。「検討を」がないと、文の骨組みができません。文の内容を表すときのキーワードが「検討を」です。この構造は、①の「政府は」が「政府が」になっても、文末「始めた」の主体のままですから、基本的な違いはありません。

日本語の場合、わかりきった主体を記述しません。あえて記述すると、その言葉が強調に聞こえたり、うるさく感じることがあります。大切なのは、主体の言葉がわかるということです。日本語の場合、記述がなくても主体がわかりやすい構造になっています。

文末という定位置に叙述する部分がありますから、文脈と合わせると、主体がわかりやすいのです。さらに言えば、文末に置かれる言葉は、原則として省略されません。叙述の内容から、主体が確認できます。文末が文のかなめになる点が大切です。

文末に置かれた叙述が文のかなめになって、文末の主体と組み合わされて文の中核を作っています。主体には「は・が」が付くのが原則です。主体+文末以外に、文の内容表すときに不可欠となる言葉がキーワードであり、こちらには「が・を・に」がつきます。

主体になる言葉は「誰・何・どこ・いつ」を表す体言です。文末の系統は「どうした/どんなだ/…である/ある・いる」の4つあります。文末は用言の複合体と言えるでしょう。それほど複雑な構造ではありません。慣れれば、これで文章が分析できるのです。

      

7 シンプルな概念で分析するツール

主体が記述されないことを意識しすぎて、主語がなくても文が成り立つと主張したり、記述された「は」と「が」の違いを強調しすぎると、おかしなことになります。たとえば助詞「は」を別格に扱った「は」のピリオド越えという考えを三上章が示しました。

▼吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事丈は記憶して居る。 夏目漱石『吾輩は猫である』(明治38・1905年)

三上は、夏目漱石『吾輩は猫である』の冒頭の文を使って、冒頭の「吾輩は」がピリオドを越えて、あとの文にも影響を与えているというのです。賛同者もいます。たしかに並べて見てみると確かにそんな気もしてくるのです。以下をご覧ください。

▼吾輩は猫である。
[吾輩(に)は]名前はまだ無い。
[吾輩は]どこで生れたか頓と見当がつかぬ。
[吾輩は]何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事丈は記憶して居る。

しかし「名前はまだ無い」の「名前は」の方はピリオド越えをしていませし、最初の「吾輩は猫である」を少し変形するとおかしなことになります。たとえば「吾輩が主人公の猫である」としたら、ピリオド越えのように見えます。不安定な概念というべきでしょう。

▼吾輩が主人公の猫である。
[吾輩の]名前はまだ無い。
[吾輩が]どこで生れたか頓と見当がつかぬ。
[吾輩は]何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事丈は記憶して居る。

これは単純な話です。英語の文章を書くときに指導されるように、主語をころころ変えないようにということにすぎません。ここでピリオド越えするのは「吾輩」という主体です。「名前は」と「は」がついているからといって、ピリオド越えなどしていません。

「は」と「が」に違いがあるのは当然でしょう。しかし、その違いの大きさは、文構造の中核である主体であるかどうかの違いよりも小さなものです。主体を意識しない通説的な日本語文法では、読み書きに役立ちません。主体が重要だということなのです。

文末とその主体を中核に据えた文法が必要であるということになります。いわゆる社会人と言われる人たちが、共有できるルールでなくては、文法になりません。司馬遼太郎は司馬は1982年に「文章日本語の成立」という講演で以下のように語っています。

▼文章というのは、それがいいか悪いかは別として、社会の文化、あるいは文明の成熟に従って、やがては社会の共有のものになるんだ、ということをお話したいと思います。 p.179 『司馬遼太郎全講演[2]』朝日文庫

自分で文章を分析できるようになれば、文のルールが理解され、そのルールが役立つようになります。シンプルな概念を使って、文を分析するツールが必要なのです。一般用語で表せる概念を使って、日本語文法を構築することが可能だろうと思います。