■現代の文章:日本語文法講義 第27回

(2022年8月16日)

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1 宿題についての原沢の説明

前回宿題にした例文がありました。原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』にあった「月はきれいだ」「月がきれいだ」の2つの例文がどう違うのかという問題です。原沢は2文の[状況を思い浮かべていただきたいと思います](p.151)と記していました。

文法的な違いについて原沢は[「~は」は主題を表し、「~が」は主語を表しました。両者の文法的な役割は徹底的に違ってましたね](p.150)と確認した上で、状況を思い浮かべられるかを問うているのです。主題と主語の違いを問うているとも言えます。

① 月はきれいだ
② 月がきれいだ

たぶん両者のニュアンスの違いは、わかるはずです。違いがあるのはわかるけれども、簡潔にこうだと言えないというところでしょう。原沢の解答が示されていますので、それを参考に考えてみるのがよいかもしれません。通説的な考えを知ることができます。

原沢は、ムードについて解説する[7章 文を完結する「ムード」の役割]に[「は/が」の使い分け]の項目を立てて、この2つの例文をあげました。[コトの内容をそのまま聞き手に提示するのが断定のムード]であり、この2つの例文もそれに該当します。

文末が「きれいだ」というのは、断定のムードになるようです。ただし、ここでの問題は、「は」と「が」の違いであり、主題と主語の違いでした。[この例文の意味の違いを考えるために]状況を思い浮かべる必要があるということです。

原沢のイメージした状況によると、①は[「月」の一般論を述べている場面]であり、[誰でも知っているごく身近な存在]の[「月」を話題にして、「きれいだ」と説明している文]になります。[一般論を述べている]のです(pp..151-152)。

②は[月が見えるところで、その月を眺めながら発した言葉]であり、[話し手が自分の見たままをそのまま聞き手に伝えること]がこの文の特徴だいうことでした。[ありのままに提示するので、主題化はおこなわれない]という説明になります(p.152)。

       

    

2 通用しない日本語文法学界の説明

原沢の説明に従えば、主題は一般論を述べ、主語は見たままをそのまま聞き手に伝えるもののようです。通説的な立場では、こう考えているのかもしれません。すでに連載25回目で見た益岡隆志の『岩波講座言語の科学5』での説明でも、似た説明になっていました。

益岡の場合、「空は青い」「空が真っ暗だ」を並べて、前者では[「空」というものに対して「青い」という説明を与えている](p.46)と解説しています。つまり「空」という主題に対して、いわば一般論的な説明を加えているという説明と方向は同じです。

後者では[観察された状況をそのまま言葉で描きあげている](p.46)との解説ですから、原沢のいう「見たままをそのまま聞き手に伝える」のと同じ見解でしょう。主題に対しては一般論を語り、主語に対しでは観察されたものを語るということになりそうです。

だから「① 月はきれいだ」は一般論を語る内容、「② 月がきれいだ」は観察をそのまま語る内容なのでしょう。この2つの例文ならば、そう言えるかもしれません。しかし、この見解を主題・主語に広げて、一般化し標準的な説明にすることは妥当でしょうか。

原沢は「断定のムード」の項で例文を出し、さらに[誰でも知っているごく身近な存在]である「月」を例にしながら解説しました。ここからいきなり「一般論を述べている」との見解を示したのです。益岡の解説よりも一歩踏み込み、説明が飛躍しています。

益岡の場合、断定のムードに限定せず、主題の概念を例文で解説するにとどめていました。この点、原沢の見解は断定的なムードをもった明確さがあって、魅力的かもしれません。主題・主語の概念を一般論化したものであり、標準化された概念と言えます。

しかし、この見解は妥当でしょうか。「① 月はきれいだ」を「③ 彼女はきれいだ」に変えてみます。とたんに主観的なニュアンスが加わり、一般論とは言えなくなるはずです。また「④ 月はきれいだった」にした場合、観察に基づいた文と感じるでしょう。

つまり、助詞「は」のついた主題に対して、一般論を述べているのは、①のみだということです。③の場合、主観的な視点での叙述ですから、一般論ではありません。④の場合、観察に基づいた叙述のニュアンスがあって、主語に対する説明が妥当してしまいます。

都合のよい例文をもとに一般化しても、他の事例に妥当しなくては説得力がありません。一般化、標準化の失敗事例です。原沢は[主題というのは、その文のなかで話者が特に話題の中心として聞き手に伝えたいものです](p.38)と説明しています。これもヘンです。

「② 月がきれいだ」という例文のなかで、「話者が特に話題の中心として聞き手に伝えたいもの」は何でしょうか。「月」と答えるはずです。それ以外の答えは見つかりそうにありません。しかし原沢は、②の例文には主題がないと説明するのです。

業界でどういう説明が通用するのかはわかりませんが、一般人には通じません。現役のビジネスリーダーの人たちと話したときにも、説明になってませんねという反応以外ありませんでした。日本語文法学界の説明・解説は、相手にされないのです。

   

       

3 3つの問題点

例文をめぐって、通説的な説明が通用しないのは、(1) 主題の概念が明確になっていないため、(2) 主体の扱いが妥当でないため、(3)「は/が」の違いの説明がズレているため…でしょう。基礎概念がおかしければ、具体的な例文の解説もおかしくなります。

では、① 月はきれいだ」と「② 月がきれいだ」の例文解説は、何が問題だったのか確認しておきましょう。まず①②ともに文の主体は「月」です。「きれいだ」といわれている対象はともに「月」ですから、「月」と「きれいだ」の関係性が問われるはずです。

①の「月」には「は」が接続し、対象となる「月」を特定し、限定しています。助詞「は」の機能は「特定し、限定する」ことです。①の例文では、月に限っての記述になります。月を特定することは可能ですし、これに限定して言及することも可能です。

②の「月」には「が」が接続し、対象となる「月」を選び出して決定しています。助詞「が」の機能は、選択肢の中から「選出し、決定する」ことです。②の例文では、いろいろあるものの中から月を選んで、焦点を当てています。筆者が選択し決定したものです。

2つの例文の違いは、助詞「は」と「が」の機能の違いといえます。片方が主題で、もう片方が主語だという区分は無意味です。例文を見ると、同じ文末に対してともに主体になっています。主体とされる対象が、どんな存在として扱われているかが問題なのです。

「は」の機能を反映させた説明ならば「月を特定し月に限定して言うと・きれいだ」になるでしょう。「が」の機能を反映させた説明ならば「選択肢の中から選び出した月について言うと・きれいだ」になります。2つの例文は対象となる「月」の扱いが違うのです。

冒頭の3つの問題にコメントをつけておきましょう。(1)日本語文法の主題の概念は幻想にすぎず、(2)日本語文法には、主体を重視した体系が不可欠であり、(3)助詞「は/が」の相違は、対象の存在をどう捉えるかという機能の違いである…となります。

      

4 助詞「は/が」の機能の違い

日本語では、主体を記述するときに原則として「は/が」が接続されます。「は/が」が接続したら主体を表す…というわけではありません。助詞「は/が」は主体である可能性を示す目印になります。あくまでも「は/が」の中心的役割は、対象の扱いの問題です。

主体となる言葉を特定して限定して言うならば「は」がつきますし、選択して決定して言うのなら「が」がつきます。主体との相性が良いことは確かです。対象の扱いに関して、「は」と「が」では対照的な機能をもちますから、両者が重要なペアになっています。

「は」は特定する機能と限定する機能があるため、対象とされたもの以外を考慮しません。そのため絶対的なニュアンスがあります。一方、「が」は選択肢から選んで決定するものです。他との比較が前提になりますので、相対的なニュアンスがあります。

さらに「は」は他を排除して言及する点で、対象そのものに対する絶対性を持ち、客観的なニュアンスをもちます。この点、「が」は選択する過程が入るため、主観的なニュアンスが感じられるのです。このように「は/が」は対照的な機能をもちます。

「は/が」について、以上を簡単にまとめておきましょう。
【は】特定し、限定する機能をもつ:その結果、絶対的で客観的なニュアンスをもつ
【が】選択し、決定する機能をもつ:その結果、相対的で主観的なニュアンスをもつ

      

5 「が:主格」「は:主題」という幻想

主体・主格を表すのが「が」、主題を表すのが「は」であるというのは幻想です。主体を表すことばを主格とか主格補語と呼び、主語でないという言い方もありますが、どうでもよいことです。具体的に「は」「が」と関連させてみれば、おかしなことが出てきます。

「彼女はピアノが上手です」の文末「上手です」の主体はどうでしょうか。「誰」に該当する人間が主体になることが予想されます。この例文での主体は「彼女(は)」になるはずです。「が」接続ならば主体(主格)になる…などという1対1対応にはなりません。

「ピアノは彼女が上手です」ならば、どうでしょうか。「上手です」の主体は「彼女(が)」です。今度は「は」接続が主体になりません。「は/が」は先にあげた機能を付加するだけであって、主体とか主題と関連づけるのはおかしなことです。

「彼女はピアノが上手です」の場合、「彼女に限っていうならば、いろいろできるけれども、ピアノが上手です」といったニュアンスになります。抽象的に、主題が「は」接続、主格補語(主体・主語)が「が」接続といった公式が成立するわけではありません。

「ピアノは彼女が上手です」の場合も、同じように文意が確認できます。「ピアノに限っていうならば、あれやこれやの人の中でも、彼女が上手です」というニュアンスになるでしょう。文の意味に「は」と「が」の機能が反映しているということにつきています。

助詞の接続を、主題や主語といった上位の抽象概念と1対1対応にすることは、読み書きの感覚とズレたものになるのです。「は」接続なら「彼女について言えば」「ピアノについて言えば」と考えることもできるでしょうが、しかしポイントがズレています。

助詞「は」の機能として特定性、限定性があるということにすぎません。助詞「は」がつけば主題になる、主題とは助詞「は」のついた言葉であるという1対1対応を成立させるには、それにふさわしい主題の概念を示す必要があります。それは無理なことです。

      

6 使えない主題概念

通説にも、主題がどういう概念であるかの説明はあります。しかし、よくわかりません。先にふれた原沢伊都夫『日本人のための日本語文法入門』での定義は[主題というのは、その文のなかで話者が特に話題の中心として聞き手に伝えたいもの](p.38)でした。

抽象的な定義ですし明確とは言えません。実際の例文にあてはめて使いこなすことは、ほとんど無理でしょう。「聞き手に伝えたい」という主観性の評価が不明確です。どういう形式ならば、「聞き手に伝えたい」と言えるのかがわからなくては使えません。

主題の概念は、(1)「~について言えば」を表す内容であり、(2)[その文のなかで話者が特に話題の中心として聞き手に伝えたいもの]であり、(3)「~は」が接続するもの…となるのでしょうか。しかし(3)の「~は」接続以外は、あまり使いようのないモノです。

たとえば「明日の会議ですが、中止にします」という例文について、通説によれば、主題がないことになるのでしょう。しかしこの文を読んだ人に、主題は何かと問えば、どうでしょうか。ほとんどの人が「明日の会議」が主題だと言うでしょう。それが自然です。

あるいは「彼のご両親に関して、詳細はお聞きしていません」という例文の主題はどうなるでしょうか。ごく普通の読者に聞いてみれば、「彼のご両親」と答えるはずです。しかし通説の考え方に従えば、主題は「は」接続の「詳細は」になるのでしょう。

主題という概念を文法で使うのであれば、明確で簡潔な定義が必要です。それに加えて、判別する検証方法が示されていることが必要になります。これらがない場合、一般用語として使われる主題の概念に従って、感覚的に使われることになります。

主題を判別する検証方法が、「は」接続との1対1対応のままでは、これまで見てきたように、読み書きをする側の感覚と違いすぎるのです。現在の通説が示す主題の概念を、日本語の文法として採用するのは無理があります。主題は使えない概念というべきです。

      

7 「主語-述語」関係が文の本質

主題や主語を、もっと大きな視点から見ておくのがよいかもしれません。何がポイントとなるのか、考える必要があるでしょう。渡部昇一は『学問こそが教養である』に所収の対談で、主語について気楽に語っています。大切なのは何かがわかるはずです。

▼「主語-述語」の関係こそが、文の本質であるということは、プラトンの『クラテュロス』以来の一番の基本でね。だから、何について何を叙述するかということなんですね、まずつかんでおくことは。
話そうとすれば、まず「何について話そうとするか」がわからないといけないわけで、それから「何を話すか」ですね。これだけ押えておけば、表現形式が日本語と英語で多少違っても、大筋においてはなんとか通るんです。 p.164 『学問こそが教養である』

ここで渡部が「主語」というのは「何について」とか「何について話そうとするか」であり、「述語」とは「何を叙述するか」「何を話すか」ということです。渡部は[表現形式が日本語と英語で多少違っても、大筋においては]という前提で語っています。

ここでいう「何について」とか「何について話そうとするか」を、日本語文法の通説の考えにあてはめてみると、「主題」の概念に似たものであることに気がつくでしょう。主語ではない、主題だと主張している概念は、[大筋において]主語の概念に吸収されます。

日本語文法でいう主題の概念は、主語の概念と[大筋において]、そう違いがないのです。違いを示すために、「は」「が」を持ち出したにすぎません。大筋において同じもののうち、「は」接続を主題、「が」接続を主格補語に区分して、主題を重視したのです。

渡部のいう述語は「何を叙述するか」「何を話すか」でした。主題についての「解説(説明)」のパートということも可能でしょう。しかし大きく違う点があります。主題と解説の関係は、論理関係を必須とせずに、関連性だけで結ばれた関係であるということです。

「読書会は13時から行います」の「読書会は」を主題とするならば、「13時から行います」は関連性をもちますから、主題に対する解説といえます。主題の概念が明確にならなくても、「は」接続と1対1対応させてしまえば、判別は明確になるのです。

さらに日本語の場合、述語が欧米言語と大きく違いますから、主題の概念を導入して「解説」とセットにすることは、一石二鳥だったでしょう。日本語は欧米流の論理的な言語ではないが、文構造にはルールがあると言えなくもないなあと、思ったかもしれません。

   

       

8 組む相手が問題:「述語」なのか「解説」なのか

渡部昇一は『英語教育大論争』で、日本の英語教育の意義を語っています。[日本の国語教育は、国語の文学的教育であるにすぎず、国語の言語学的教育は英語の時間に最も徹底的に行われているのである](p.36 『英語教育大論争』文春文庫版)との主張です。

渡部は、国語の時間に書かされる作文の評価が[文学的視点から行われる]と指摘します。これに反して、[英文和訳の時間において、和訳の日本語は、一にも二にも言語学的な批判にさらされる]と指摘しているのです。具体的には、以下の点が問われます。

▼主題はどれであるか。それはしかるべき述語によって叙述されているか。言語に内在する論理性はそこなわれていないか、などなどである。 pp..36-37 『英語教育大論争』文春文庫版

ここでは「主題」と「述語」がセットになっていて、両者の関係が問われています。[言語に内在する論理性]が問われているのです。渡部は『学問こそが教養である』で「何について」とか「何について話そうとするか」を「主語」と呼んでいました。

それに対して『英語教育大論争』では、「何について」とか「何について話そうとするか」を「主題」と記したようです。一般向けの文章では、主語と主題を厳密に分けていません。それよりも大切なことがあります。それが[言語に内在する論理性]です。

渡部は、主語・主題の違いに神経質になるかわりに、述語を組み合わせる相手方にしています。問うているのは、[それはしかるべき述語によって叙述されているか]です。「しかるべき述語」とは[言語に内在する論理性]をもつ述語ということになります。

「主語-述語」が論理的対応をしていること、「主題-述語」が論理的対応をしていることが問題なのです。主語と主題の概念の違いよりも、述語との論理的な対応関係が重要になります。論理的な関係がない場合、文法的ルールとは言いにくいということです。

渡部が、主語と主題を混在して言ったとしても、対応する相手側が述語である限り、問題になりません。[これだけ押えておけば、表現形式が日本語と英語で多少違っても、大筋においてはなんとか通る](p.164 『学問こそが教養である』)のです。

日本語文法における主題の概念の定義は、なんとなくわかる程度の概念でした。これでは使えません。主語に類似した概念である主題の後に置かれた部分を、解説(説明)としました。これで論理関係が問われなくなります。同時に文法ルールではなくなったのです。

     

      

9 「主題-解説」と文法的構造

すでにこの連載で見たところですが、主題と解説の関係は、英語でも使われています。上田明子は『英語の発想』で、主題に当たるシーム(theme)と解説に当たるリーム(rheme)を、英文を書くときの指針として使っていました。これは文法ルールではありません。

上田は、[混乱なく文章の構造を述べていくために、シーム(theme)とリーム(rheme)という、文法の主語+述部とは別の2分法を立てます。談話分析の手法として広く取り入れられているものです](p.97)と記しています。文法とは別なのです。

▼主語・述部の別と、シーム・リームの別という2つの区分をつくることで、文法的に文を扱っているのか(主語・述部)、あるいは情報の流れを扱っているのか(シーム・リーム)の区別ができます。 p.101 『英語の発想』

日本語の場合、文末に置かれた言葉は、主体の叙述になっています。主体の叙述が文末という指定席に置かれるため、その相手となる主体を見つけるのは容易です。あえて記さなくても、文脈から容易に推定できる主体であるならば、記述する必要はありません。

河野六郎は、日本語のことを単肢言語だと言いました(「日本語(特質)」『日本列島の言語』)。これは主体の記述が必須でないということです。言うまでもなく、主体が必要ないということではありません。記述がなくても、主体がわかるということです。

日本語で使われる「主題-解説」は、「主語-述語」にとって代わるべき存在ではありません。「主題-解説」は文法構造ではないのです。述語の概念が欧米語とずいぶん違いますから、日本語で「主語-述語」をそのまま取り入れるのは無理がありました。

益岡隆志は主語について、[主語は述語と相互依存の関係にあって、その意味で、対等な関係にあるものと考えられる](『岩波講座 言語の科学5』p.46)と説明しています。述語とは「文の末尾に現れる成分」(p.44)です。益岡は主語否定論の立場に立ちます。

「相互依存」とか「対等な関係」というのは、どう認定すべきか曖昧です。渡部昇一が言うように、「何について何を叙述するか」ということ、「何について話そうとするか」+「何を話すか」の構造があれば、相互依存する対等な関係だと考えることもできます。

日本語には、文末に「何を叙述するか」の記述がありますから、それに対する「何について」という主体が見いだされるならば、相互依存する対等な関係と言ってよいのです。大切なことは、それによって役立つルールになるかどうかということでしょう。