■現代の文章:日本語文法講義 第16回 「述語という概念の凋落」

(2022年4月28日)

* これまでの連載はこちらです。

     

1 小西甚一の「太っ腹文法」

前回の掲載から、少し時間が開いてしまいました。新しい講座の企画を立て、テキストを2つ作り、講座を2つ実施することになって、連載を書く時間が取れませんでした。文書作成やマニュアルに関連したものでしたが、講義の準備と、それとは別のテキスト作成でしたから、内容が大きく違います。それで思いのほか時間がかかりました。

ただ細かな違いはあるにしても、これらと日本語の文法の話は、別ものではありません。この文法講義で、日本語散文の読み書きの運用マニュアルを作ろうとしているのです。文書を作るときの基礎として、文章の読み書きのルールを見出そうとしています。

せっかく文法を学んだのなら、文法が使えなくては意味がありません。この講義での話は実践可能であることが前提になっています。小西甚一の『古文の読解』を見てみると、「太っ腹文法」と「用心文法」という言い方がなされていました。大切なことです。

▼文法学者が百人いれば、百通りの文法学説が存在すると言われているほどで、いちいち違いを気にしていたら、文法の勉強なんかとてもできっこないし、無理にやれば、ノイローゼかなんかになって、損害はたいへん拡大するに違いない。だから「腹を太く持ちたまえ」なのである。 『古文の読解』 ちくま学芸文庫版 p.194

そこで、[「どんなふうに考えをもってゆくか」という筋道の立てかたを学んでいただきたい](p.195)ということになります。敢えてこんな言い方をしなくてはならないのは、仕方のない理由がありました。

小西は、何が問題なのか記しています。[術語の不統一である。文法学者たちは、めいめい勝手な術語を使う](p.195)から問題なのです。そのため小さな概念の違いを主張することになるでしょう。理解が正確でないといった批判をするはずです。

それでは、どうしたらよいのでしょうか。小西は小見出しに「術語を気にするな」と掲げました(p.195)。

▼術語というものは、研究を便利にするため存在するはずであって、その逆であってはならない。ところが、いまの文法学では、術語がやたらに使われているため、世間さまに少なからぬ迷惑を及ぼしている。 p.198 :『古文の読解』

小西の『古文の読解』は1981年に改定版が出されています。いまから40年ほど前のことですから、現在でもそのまま通じるかどうかはわかりません。ただし、趣旨はわかります。

かつて「客語」という術語があったようです。[ところが、その時代でも、「客語」というのが何を指すか、はっきりしないきらいがあって、文法学者たちは、多く「目的語」「補語」などと言い分けていた](p.197)のでした。

大学受験の古文用の参考書ですから、そのまま現代の日本語文法にあてはまるとは言いかねますが、大切なところは変わらないでしょう。

小西は、[「高校教育の文法では、術語をなるべく少なくし、文法現象そのものを考えさせる」というのが、これからの文法教育](p.198)であるべきだと主張するのです。

小西が文法現象の中心にすえるべきものが何であるのか、「用心文法」のパートの最初で語っています。[文法でいちばん大切なのは、何が何を修飾するかということだぜ]とのことであり、さらに[文法でいちばん大切でないのが、品詞分解だろうな]ということになります(p.239)。

「用心文法」というのは一番の中核ではないけれども、品詞に絡んだ文法項目を確認しておく用心も必要だというほどの意味です。とくに助動詞や助詞について、エッセンスだけでも確認しておいた方がいいということであり、そのエッセンスが「用心文法」の内容になります。

小西が言う[何が何を修飾するか]という中には、主語や目的語や補語といったものも、入っているようです。「太っ腹文法」の項目で一番中心にすえられているのが、「主語は誰だ」という問題でした。

日本語の場合、センテンスのキーワードが文末との対応関係を作りますから、修飾と捉えることができます。実際、これが一番大切な問題です。この話は、このあとまた戻ってきます。

    

     

2 不明確な「述語」の概念

前回、日本語の散文が言文一致になるときに、文末の標準化がポイントになったことを記しました。文末がセンテンスの要になっているのです。したがって、文末の標準形から、日本語の散文を考えていくのは王道だといえます。

日本語の文末は言文一致に関連して、標準形が確立してきました。この文末にセンテンスの言葉がどのように関わっていくのかが、もっとも大切な事項だと言ってよいでしょう。しかしここに問題が生じます。小西甚一の記していた通り、術語が安定していないのです。

英語の5文型で扱う要素は「主語・目的語・補語・述語」になっています。しかし英語の要素を、そのまま日本語に導入するのは無理があるでしょう。ことに述語という言葉が日本語の文法で独り歩きしてしまったのは、困ったことです。

日本語の文法で「述語」という用語が使われています。学校の教育では、かなりの程度定着したと言ってよいでしょう。「主語・述語」というのは、おそらく小学校、中学校で習うはずです。しかし習った側に聞くと、よくわからなかったということになります。

伝統的な学校文法の参考書を見てみましょう。橋本武の『中学生のやさしい文法』(初版1972年)での説明は、学校で教えられている内容と、そう違いがないだろうと思います。橋本は以下のように説明しました(p.112)。

[1] 日本語の文には基本タイプが三つあり、[これらの文節相互の関係を公式化]すると、「ナニガ-ドウスル」「ナニガ-ドンナダ」「ナニガ-ナンダ」となります。
[2] このうちの[「ドウスル」「ドンナダ」「ナンダ」の部分、つまり、主題に対して述べている部分を「述語」という]のです。

ここから少し発展した説明もなされるようになってきました。原沢伊都夫の『日本人のための日本語文法入門』では、述語に関連した領域について、以下のように書いています。

▼日本語文の述語は3種類しかありません。それは、動詞と形容詞と名詞です。これらの述語を中心に構成される文をそれぞれ、動詞文、形容詞文、名詞文と呼びます。 p.13 『日本人のための日本語文法入門』

[文は、最後に来る述語によって、その種類が決定されます](p.13)とのこと。「述語」という用語は「語」という以上、品詞が「3種類しかありません」となるのかもしれません。

日本語はこの[述語を中心に構成される]というのは、かならずしも明確ではありませんが、文末表現に限らず、文全体が[述語を中心に構成される]と考えるのでしょう。橋本武の説明でも「ナニガ-ドウスル」「ナニガ-ドンナダ」「ナニガ-ナンダ」の3つの基本タイプが示されていました。

品詞が前面に出たことに違いがありますが、ここまでの説明は、おそらく橋本武の説明とあまり変わらないのだろうと思います。

ここに加わったのは、[述語(ボイス+アスペクト+テンス)+ムード](p.144)という構造があるとの説明です。

「ボイス・アスペクト・テンス・ムード」という用語は、あまり耳慣れたものではありません。とくに知らなくても、読み書きに支障のないものです。そう気にするものではありませんので、きわめて大雑把に説明しておきます。

ボイスは能動態・受動態かどうか、アスペクトは進行形や完了形についてのこと、テンスは時制、ムードは推量だの願望、勧誘などのニュアンスのことです。ここで使われている「ムード」という用語は、「モダリティ」とほぼ同じ意味のようです。「モダリティ」の方が、広く使われているようにも見えます。

いずれにしても、ご苦労さまという感じがしました。小西甚一が言った[文法学では、術語がやたらに使われているため、世間さまに少なからぬ迷惑を及ぼしている](『古文の読解』 p.198)の事例かもしれません。小西の場合、『古文の読解』で「主語」という言葉を使いながら、「述語」という用語を使っていないのです。

北原保雄の『日本語の文法』では、[ここまでは述語という文法用語を「いわゆる」という語を冠したりして曖昧な意味で用いてきたけれども]という言い方をしたうえで、[便宜的に用いることにしたい](p.103)と記しています。

述語の概念が明確になっているわけではないということです。英語の「S」と日本語の「主語」の違いよりも、英語の「V」と日本語の「述語」の方が乖離が大きいとも言えるでしょう。

英語の5文型の場合、すべて「S+V」からはじまりまっています。敢えて言うまでもないことですが、英語のセンテンスには動詞が必要不可欠です。ところが日本語の場合、動詞がなくてもセンテンスは成立します。英語の「V」と「述語」の概念が大きく異なるのは当然でしょう。

    

      

3 「述語」概念の凋落

述語が、どういう風に説明されているのか、以下の初歩的な本を確認してみました。

1991年初版 野田尚史 『はじめての人の日本語文法』
2000年初版 森山卓郎 『ここからはじまる日本語文法』
2001年初版 庵 功雄 『新しい日本語学入門』

これらを見ると、「述語」という用語・概念を使いたくないのかなと、そんな感じさえする記述になっています。述語を正面から扱っていません。最初の本は、ボイスとテンスを扱い、残り2冊ではボイス、テンス、アスペクト、モダリティのすべて扱っています。

これらが必要ないとは思いません。しかし日本語の散文が言文一致体になり、文末が確立したことの効果がどうなのか、もう一度考えてみる必要があると思います。そちらのほうが大切なことです。

この点、「いつ・どこで・誰が・何を・どうした」という基本的なセンテンスを確認すれば、わかるでしょう。文末がその前のキーワードを束ねているのです。以下のようになっています。

「いつ…どうした」
「どこで…どうした」
「誰が…どうした」
「何を…どうした」

「どうした」にかかっている言葉がセンテンスのキーワードということになります。「今日、私は市の図書館で恩師の本を見つけた」という例文を上記のようにしてみれば、何がキーワードになっているか確認できるはずです。対応関係の有無があります。

○「今日 …見つけた」
○「私は …見つけた」
× 「市の  …見つけた」
○「図書館で …見つけた」
× 「恩師の …見つけた」
○「本を …見つけた」

ここで○になっている言葉がキーワードです。×になっている言葉は、キーワードを修飾しています。キーワードがうしろに置かれて、修飾する言葉が前に置かれているのもお分かりでしょう。「市の・図書館で」「恩師の・本を」という風に、キーワードはうしろに置かれます。

小西の言う[何が何を修飾するか]ということに即して言えば、キーワードの前に置かれた言葉が、キーワードを修飾するということです。もう少し太っ腹な説明を加えれば、キーワードが文末を「修飾」しているとも言えるでしょう。

日本語の場合、キーワードと文末の関係と、キーワードとそれを修飾する言葉の関係が、大切なルールになっています。こうした構造を示さずに、動詞文、形容詞文、名詞文に分類するのは、ずいぶんガサツな説明です。

「動詞文、形容詞文、名詞文」という以上、文の種類を言うのでしょうから、文型とも関係があるのでしょう。しかし、その役割を果たしてはいません。こうした分類は、意味のないものです。もっと大切なことがあります。

キーワードと文末の関係が同じ構造であるならば、日本語の文型として同じだと考えるのが自然です。このあたりは、例文で見れば、すぐにわかるでしょう。

たとえば「公園にブランコがある」と「公園にブランコがない」とは、同じ構文だと考えるべきだということです。読み書きの観点からすると、二つの例文は、同じ文型だと言う以外にありません。別々の構文であるとするのは不自然です。並べてみましょう。

① 近くの公園にブランコがある。
② 近くの公園にブランコがない。

どう見ても、同じ構文です。わけのわからない「述語」という概念によって品詞を決めて、「動詞文、形容詞文、名詞文」にわける意味があるのでしょうか。現在の文法にしたがって説明すると、以下のようになるはずです。

①の場合、述語は「ある」ですから、動詞文ということになります。「ある」が動詞なのは間違いありません。ウ段の終止形、イ段に「ます」がついて「あり・ます」という丁寧体になりますから、動詞です。

②の場合、述語は「ない」ですから、形容詞文だということになります。終止形が「イ」ですし、「ない・です」とも言えて、「ない・である」とは言えませんから、「ない」は形容詞でしょう。

日本語の散文の文型を構築するときに、「述語」の品詞を基準にして組立てると不自然な結果を生むのです。結果が読み書きの感覚と違う場合、その文法は使いにくいでしょう。新たな基準で文型を考えていくしかないということになります。

     

4 ビジネス文の標準的な文末

ここで前回の宿題をやっておきましょう。前回、文末の通常体と丁寧体を見てきました。これは品詞を決めるときの基準です。名詞文、形容詞文、動詞文とは違います。まず、前回の確認をしておきましょう。

[1] 名詞  丁寧体【+です】/通常体【+だ・である】
[2] 形容詞 丁寧体【+です】/通常体【終止形】
[3] 動詞  丁寧体【+ます】/通常体【終止形】

上記は標準的な文末の形です。ここに「…でしょう」とか「…かもしれない」といったモダリティ(ムード)にあたるものがつくかもしれません。あるいは過去形になるかもしれませんが、標準形でない話はまたあとでしましょう。標準形は上記のようになります。

これで何が問題なのかと、思うかもしれません。言われれば、なんだという話です。ビジネス用や学術用の文章で、通常体の「+だ」を使うかどうか、問題になります。ビジネス人の方なら、通常体の場合、「+である」を使うでしょう。

現在でも、「+だ」と「+である」の2系統があります。それでも、ビジネスや学術の分野では、「+である」に収斂されていきました。これは理論的に決まったのではなくて、時とともに標準スタイルが形成されてきたということになります。

どうしてこういうことになったのか、確認したいところです。文章の感覚に鋭い人に聞いてみるしかありません。竹内政明は『「編集手帳」の文章術』の第1章に[私の「文章十戒」]を書いています。その【第一戒】は[「ダ」文を用いるなかれ]でした。

▼私の書く「編集手帳」の文末に「…だ」は登場しません。いくらか気取って聞こえるのは承知のうえで、「…である」と書いています。名文の定義は人によってさまざまでしょうが、<声に出して読んだときに呼吸が乱れない文章のこと>と私は理解しています。センテンスとセンテンスを穏やかにつなぐ「…である」に比べ、「…だ」には音読するとブツッ、ブツッと調べを裁ち切るところがあり、どうも用いる気になれません。 p.11 『「編集手帳」の文章術』

竹内は、[新聞のコラム書きにとっては、「…だ」のもたらすテンポの良さが曲者です](p.12)と言い、以下のように記しています。

▼コラムは読まれてナンボ、読者の視線が字面をせかせかと素通りするのでは困ります。読者の読む速度をコントロールし、少しでも丁寧に活字を追ってもらう意図もあって「…である」を採用しています。 p.12 『「編集手帳」の文章術』

さらに竹内は、永井荷風の『断腸亭日乗』の一節に「ダの字にて調子を取るくせあり」とあるのを引いて、[私としてはお墨付きをもらったような気分で、多少なりとも意を強くしたことでした](p.13)と記しました。

こうした「+だ」のニュアンスがあるため、「+である」が通常体の標準的な文末になっていったのでしょう。竹内が前の引用の中で言うように、「である」には[いくらか気取って聞こえる]ところがあります。その点もビジネス文や学術用の文章に向いていたと言えそうです。

ビジネス用の文章について言うならば、以下のような文末が標準的であると言えるでしょう。

[1] 名詞  丁寧体【+です】/通常体【+である】
[2] 形容詞 丁寧体【+です】/通常体【終止形】
[3] 動詞  丁寧体【+ます】/通常体【終止形】

ここにまた別の問題が加わってきます。それはまた続きで書くことにしましょう。

述語という用語を、ほとんどの人が知っているはずです。学生たちは正直ですから、どういうものか、よくわからないと言います。もともと概念が曖昧なものであるのですから、当然そういう反応が出てくるはずです。

「述語」というのは文末の中核になる言葉だけを指すのかどうか、十分な説明がありませんが、述語に品詞があるとの説明もなされていました。その品詞に基づいて、名詞文とか、形容詞文、動詞文と分類されているのです。

その分類は、日本語の読み書くをするときに、役に立ちません。日本語に即して考えるしかないのです。そのとき、品詞を前面に出すのは間違いです。同じ構文でも、動詞文と形容詞文に分かれてしまうことがあります。区分の基準が間違っているのです。

今回は、このへんで一区切りといたします。