■現代の文章:日本語文法講義 第14回

(2022年3月28日)

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1 論理的思考の指標となった英語

論理的な記述が可能になる前提として、論理的な思考が必要なのは確かでしょう。しかしここで言う論理的な思考というのは、そんなに明確な概念ではありません。どういうものであったのか、どうとらえてきたのか、まず確認が必要です。この点、『日本語の歴史6』に以下のように記されています。

▼ヨーロッパの言語は、少なくともそれを母国語として話さぬ日本人からみた場合、そして日本語に対する比較的な意味においてではあるが、摂取するにたる論理的性格を有してもいたのである。 p.188 『日本語の歴史6』平凡社ライブラリー版

日本語よりも少なくとも論理的だと思われる英語を中心とするヨーロッパの言語から論理的な思考、論理的な記述を学ぼうとしたのです。ラテン語を洗練させたブルーニが古代ギリシャ語を学んで、その翻訳をしたことが思い出されます。

英語や古代ギリシャ語のように、具体的な対象があることによって、学習の焦点が絞られていったということでしょう。そうした参考にする言語がなくては簡単に学ぶことは出来ません。このことは岡田英弘が『歴史とはなにか』で書いていたことでした。

[どこの国でもそうだが、言葉が開発されるときには、その下敷きになる外国語が必要](p.185)であり、ラテン語も[ギリシア語をもとにして、それをイタリアのラティウム地方の言葉に置き換えて、開発された](pp..185-186)ということでした。

日本語が英語から学ぶことが、論理的思考や論理的な記述の指標になったということです。それを翻訳することによって学んでいったということになります。

では翻訳をする場合に、江戸時代から続く訳読法であった直訳体のままでよかったのでしょうか。語彙が豊かになり、日本語の散文の開発が進んでくると、それでは立ち行かなくなります。違う要求が出てくるはずです。

別宮貞徳は『翻訳読本』で、[すぐれた翻訳をするためには、すぐれた文章が書けなければならないこと、いいかえれば、名翻訳者は名文章家であるということ](p.13)が条件であると記しています。もう少し具体的な基準を言うならば、以下のようになります。

▼聖書の現代英語訳者で、手すさびに推理小説までものしている高位聖職者ロナルド・ノックスが書いた『翻訳者の試練』には、
(i) to be accurate(正確であること)
(ⅱ) to be intrelligible(理解できること)
(ⅲ) to be readable(読みやすいこと、読むにたえること)
の三つが、条件にあげられています。 p.34 『翻訳読本』

これらに対する別宮のコメントは以下のようなものでした。
・正確であるとは、[セントバーナード犬を聖ベルナルドとまちがえたりしないこと]
・理解できるとは、[「人間は、彼が持っているかもしれない一条の灰色なものを…」などとは書かないこと]
・読みやすさが[いちばん大切](p.34)

日本語を書く場合も同じでしょう。言いたいことが正確に表現でき、それが理解できるものであること、さらにそれが読むにたえる表現になっていることが必要です。こうした日本語あるいは日本語の翻訳文にするために、どうすべきなのか、別宮は書いています。

▼けっきょくわれわれの進むべき道は意訳しかない。しかし念のためにもう一度いっておくと、意訳というのは、けっして人びとがよく思うように、およその意味をくみとって見当で訳すことではありません。作家がいわんとしていることを正確に読みとって訳すこと、それが意訳です。 p.49 『翻訳読本』

別宮は[もう一度われわれは、直訳をたんなる読解法と見る考え方に戻るべきだ](p.50)と言うのです。具体的にどうしたらよいのかという点について、谷崎潤一郎の『文章読本』にある以下の言葉を引用しています(中公文庫版ならpp..68-69)。

▼初学者に取つては、一応日本文を西洋流に組み立てたほうが覚えやすいと云ふのであつたら、それも一時の便法として已むを得ないでありませう。ですが、そんな風にして、曲がりなりにも文章が書けるやうになりましたならば、今度はあまり文法のことを考えずに、文法のために措かれた煩瑣な言葉を省くことに努め、国文の持つ簡素な形式に還元するように心がけるのが、名文を書く秘訣の一つなのであります。

別宮はここでの文法が「英文法」であるとの丸谷才一『文章読本』の説明を受けいれた上で、[谷崎のこの言葉は、名文を書く秘訣であるのみならず、名訳を書く秘訣でもあるのだ](p.50)と記しているのです。

二つの段階が必要だということになります。第一段階で[作家がいわんとしていることを正確に読みと](p.49)ること。第二段階で、それを「国文の持つ簡素な形式に還元する」ことが必要なのだということです。

第一段階で「正確であること」を確保し、第二段階で「理解できる」「読みやすい」文章に変えるということになります。

    

      

2 翻訳の方法に使える谷崎の2段階方式

別宮貞徳は谷崎の『文章読本』の一節を引いて、それが[名訳を書く秘訣]になると書いていました。『日本文の翻訳』でも、安西徹雄は谷崎の『文章読本』の同じ個所を引用して、日本文を翻訳するための基本的な方法になると記しています。

▼最初はまず、一応「日本文を西洋流に組み立て」、その後で、単に西洋流の文法の必要上入れたにすぎない言葉を消去してゆき、「国文の持つ簡素な形式に還元する」よう工夫すればよい、という方法である。
この方法論を逆に応用すれば、これは実はそのまま、日本文を英訳する際の基本的な方法論になるのではあるまいか。 p.12 『日本文の翻訳』

逆の方法というのは、どうなるのでしょうか。自然な日本文は[英語の文法からすれば必要なはずの要素を省略し、「簡素な形式」で書かれている](p.12)のです。[これを英語に訳すときには]、やはり二段階の手順が必要になります。

第一段階で、[英語の発想や表現からすれば必要な要素を周到に付け加え]、[「明示的」、「論理的」な形に直して]置きます。
第二段階で、[はじめて英語に置き換える作業に取りかかればよい]のです(p.12)。

ここでいう[英語の発想や表現からすれば必要な要素][「明示的」、「論理的」な形]というのが、われわれがしばしば語る「論理的」というときにイメージされるものだろうと思います。幸いなことに安西は[いくつかの大事な項目]点を列記しています(pp..25-26)。

(1) 主語の設定
(2) 動作主を主語に立てる
(3) 時制の扱い
(4) 話法の問題
(5) 代名詞の選択
(6) センテンスの切り方

まず主語を補わなくてはなりません。[状況をよく解析して、「主語+述語」という英語のセンテンスの基本形に適合する]ように[原文の内容を整理する](p.27)ことが必要になります。[表には出てない主語を探り出す]作業が必要です(p.30)。

安西は上記(1)「主語の設定」について例文をあげて、英語の発想だとどういう文になるかを示しています(pp..34-35)。

①お金は、教室の花を買うのにいるのです。
⇒教室の花を買うのに、われわれはお金を必要とする。

②花は、彼が折ったにちがいない。
⇒彼が花を折ったに違いない。

③姉は、去年子どもができた。
⇒去年姉に子どもができた。

④会場は、余興が始まっている。
⇒会場で余興が始まっている。

前の例文が日本的な表現だとすると、後の例文は英語的な表現だと言うことになりそうです。もしかしたら、かつて前の表現がしっくりしていて、後の表現に違和感があったのかもしれません。しかし、いまではそうとは言えなくなっています。

なぜそんな風に感じ方が変わったかと言えば、明確性を気にするようになったからでしょう。明確性というのは、論理的な思考の基礎ともいえます。例文のどちらが自然で、どちらが良いと感じるのか、確認してみましょう。

①は前の方が自然です。②の場合、後の方が自然に感じます。③は前と後、どちらでもよいかもしれませんが、後ろの方がすっきりしてわかりやすいでしょう。④は後の方が自然です。前の方が谷崎の言う「国文の持つ簡素な形式」の例文とはとても言えません。

日本語を読み書くする人間の感覚が変わってしまえば、わかりやすい簡潔な言い方の形式も変わってきます。

安西は[動作主を主語に立てる]点を大事な項目にしていました。[英語では「動作主+他動詞+目的語」という形が特に好まれる傾向がある](p.25)と記しています。

この形式が日本語に入り込むとき、問題になるのは動作主が無生物の場合です。いわゆる無生物主語をどう扱うべきかということになります。日本語で、どうとらえられるようになっているかということが問われるのです。

    

      

3 無生物主語の受け取られ方

日本語にはもともと無生物主語はありませんでした。この点、『日本語はどこからきたのか』で大野晋は書いています。

▼日本語では、「会合は延期された」とか「悪がほろぼされた」のような無生物を主語にした受身の言いかたを、現在は使っているが、これは英語などの翻訳からはじまったもので、本来は、そのような表現はアルタイ語にはなかった。朝鮮語にも日本語にもなかった。 pp..52-53 『日本語はどこからきたのか』

翻訳からはじまった言い方であっても、それが定着して自然に感じるなら、もはや日本語の表現ということです。このことは受身に限らず、もう少し広がりのある話なのかもしれません。

『日本文の翻訳』の「5 名詞中心と動詞中心」で安西徹雄は、外山滋比古の『日本語の論理』の一節を引いています。[西洋語が名詞中心に構成されるのに対して、日本語は動詞中心であるという]指摘です。まず安西が引用した箇所を見てみましょう(p.53)。

▼西欧の言語が名詞中心構文であるのに、日本語は動詞中心の性格がつよい。「この事実の認識が問題の解決に貢献する」というのが名詞構文なら、「これがわかれば問題はずっと解決しやすくなる」とするのが動詞構文である。翻訳においては、語句の翻訳だけでなく、こういう名詞構文→動詞構文の転換も必要である。名詞構文の方が固い論理を表すのに適している。動詞構文ではそれが充分に移しきれない。動詞構文の論理はもっと柔らかいものだからである。

安西は外山の文章を引いて、名詞構文の例文がまさに[「無生物主語」の構文に他ならない]と書いています。さらに進んで、[英語が名詞中心構文であるというのは、英語が「動作主+他動詞+目的語」の構文(なかんずく無生物主語の構文)を好むという事実と、じつは表裏の関係を成している]と指摘していました。

引用文中にある例文を並べてみましょう。英訳は安西のものです。
・動詞構文: これがわかれば問題はずっと解決しやすくなる
・名詞構文: この事実の認識が問題の解決に貢献する
・英訳: The recognition of the fact will contribute to the solution of the problem.

名詞構文の例文に違和感があるのは当然でしょう。英訳をするために英語の構文に合わせているからです。動詞構文の例文は自然ですが、ビジネス文ではあまり使いそうにありません。

どういう言い方が自然であるのかは、一律に決まるものではないでしょう。しかし上記の例文より自然な例文はありそうです。例えば以下ならどうでしょうか。

*この事実が確認できれば、この問題の解決は容易になる

たぶん上記の例文よりもかえって違和感を感じないはずです。この例文は名詞構文なのでしょうか。動詞構文なのでしょうか。

「確認できれば」というのは動詞構文的といえそうです。「問題の解決は容易」のところなどは、名詞構文的なのかもしれません。いずれにしろ、名詞構文だ、動詞構文だと明確に言えない形式でしょう。

これは受身・受動態についても言えることです。安西は書いています。[「古い家並みが壊されて高速道路が作られた」とかいう表現も不可能ではないけれども、やはりどこか堅苦しく、いわゆる「翻訳調」という感じがする](p.98)。

しかし、いまでは翻訳調だという感じがしません。少し修正して「古い家並みが壊され、高速道路が作られた」にすると違和感はさらになくなります。「何がどうされ、何がどうされた」という内容を時系列に並べた文形式はわかりやすい言い方です。この文を翻訳調だとは感じないでしょう。

     

      

4 現代日本語の発展段階

新しい日本語に対して、受入れる側の感じ方が変わってきたのです。『日本文の翻訳』は1983年の本でした。当時、無生物主語にあたる例文を翻訳調だと感じる人がいたのかもしれません。

しかし現在では、名詞構文・動詞構文で考えることを重要視する必要はなくなりました。参考程度で十分になったと考えられます。

翻訳が日本語に影響を与えて、自然な日本語散文の中に、かつて翻訳調と言われる形式が取り込まれました。それらの中から日本語に定着して、自然だと感じさせる表現がうまれて来たということです。

渡部昇一が1983年に出版された『英語の歴史』において示された、日本語についてのコメントが思い出されます。[この英語の発展段階を見ると、現代の日本語はShakespeareの頃の英語にあたるのではないかという印象を受けることがないでもない](p.252)というものでした。

1980年頃ならば、そういう段階だったのでしょう。いまでは自然な表現でも、1983年出版の『日本文の翻訳』における安西徹雄は「翻訳調」と感じたのです。

安西は[日本語の受身には、次のような特徴があるとまとめることができ](p.99)るだろうと記していました。しかしこの内容は古びてしまっています。最初の項目は[主語は原則として人間である]というものでした。もはやこのルールは使えません。

「高速道路が作られた」という言い方が違和感なく受け入れられるのなら、「主語は原則として人間」と考える必要はありません。それだけ翻訳が日本語に影響を与えたということになります。取り入れたものが定着したのです。成熟したと言ってもいいでしょう。

逆に言えば、現代の日本語からルールを抽出する段階に到達したと考えてもよいということです。渡部の別の著書での言葉をふりかえるならば、次のようになります。

▼英語を豊かにするために、どんどん古典語などからの借入語を入れようと努力し、それに成功した段階が終わって、「英語にも規則を」つまり「英語にも文法を」という国語意識が強くなった段階に入ったということである。 p.156 『英文法を知ってますか』

現在使われている日本語、とくに自然に感じられる日本語の散文を素材にして、規則・文法を考えていくことが可能になった、日本語の散文もそれだけ成熟したのだと言ってよいと思います。

日本の近代的散文の先駆的な達成というべき夏目漱石の文章の中に、翻訳の影響がたくさん見られるのは、当然のことでした。加賀野井秀一は『日本語は進化する』で『吾輩は猫である』の文章を丁寧に確認しています。まさに加賀野井が言う通り、「翻訳が日本語を変えた」のです。

日本語が変わった以上、谷崎潤一郎が昭和9(1934)年に『文章読本』で記した[日本文を西洋流に組み立て]てから[国文のもつ簡素な形式に還元する]という2段階の方法に対する評価も変わってくることになります。

かつて谷崎自身が[一時の便法として已むを得ない]と言いながら[名文を書く秘訣の一つ]としていたこの方法は、日本語を書くときにはもはや不要になったということです。翻訳をするときに使われるものだということになります。

谷崎の方法は『文章読本』の「二 文章の上達法」の「文法に囚はれないこと」の最後に置かれています。この章で[日本語には西洋語にあるやうな文法はない]と小見出しを立て、さらに太字で[日本語には明確な文法がありません]と記していました。

日本語の文法は、英文法などと同様の効果がなかったのです。その上で、[私は文法の必要を全然否定するのではありません]と言って、一時の便法として使えると示したのが、二段階の方法でした。

当時は西洋言語の文法を引き写した「日本語文法」しかなかったのでしょう。こういう日本語文法を「英文法」としたのは、意味を汲んでわかりやすくした「意訳」というべきものでした。もはや現代においては、本来の意味での日本語文法が作られる環境は整っているということでもあります。