■現代の文章:日本語文法講義 第7回

(2022年1月28日)

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第6回

     

1 環境変化に対応した日本

[1] 事態の大転換

19世紀に入って日本の外部環境が大きく変わってきました。世界情勢に合わせて、日本は変わらざるを得ません。蘭学が盛んになったあと、今度は英語を学ぶことが主流になっていきます。日本人自らの意思で方向転換をしたのではなくて、海外情勢に適応するためになされたことでした。

直接的な影響を与えたのは1840年にはじまるアヘン戦争だったでしょう。宮崎市定は『宮崎市定全集』18巻に収める自跋で『アジア史概説』について、明確な言い方で記しています。

▼ヨーロッパにおける産業革命の成功は、その結果として、飛躍的な軍事力の増強に維った(ツナガッタ)。ユーラシア大陸西端における英国と、その東端における中国との戦争などは、従来の観念よりすれば、地球と宇宙人との格闘に類する。ありえべからざる想定に他ならなかった。然るにそれが現実の事態となって表れたのである。しかも極めて少数の艦船より成る英国遠征軍が、人口億に達する中国を屈服せしめたのである。アヘン戦争より引き続く、円明園事件に至る数年間の歴史が、人類創生以来の常識を顛(くつが)えしたのであった。 『宮崎市定全集』18巻 pp..440-441

1840年のアヘン戦争に続き、1856年のアロー戦争(第二次アヘン戦争)がはじまり、清朝の離宮である円明園をイギリス、フランス軍が破壊した1860年の円明園事件までの20年間の大転換を宮崎は指摘しています。

      

     

[2] 蘭学者の果たした役割

こうした変化に、各国はどう対応したのでしょうか。『アジア史概説』の本文でも宮崎は書いていました。

▼世界の変化を清朝は知らなかった。そしてこの変化は、清朝側における実力衰微のためばかりではなく、この間にヨーロッパには産業革命と政治革命とがあいついで行われ、ヨーロッパの威力は百年前と比較にならないほど強化されていたことからきているのであった。 『宮崎市定全集』18巻 p.320

従来とは違う圧倒的なパワーに[清朝は、イギリスの提示する条件を鵜呑みにして南京条約に調印しなければならなかったのである(1842年)](p.320)。

当然、日本にも影響がありました。[日本がアメリカ使節ペリーにたいして通商条約を締結して開国したのは、これより十二年の後であり、アヘン戦争の結果を考慮するところがあってのことであった](p.320)。日本は1854年に日米和親条約を結んでいます。

宮崎は[世界の変化を清朝は知らなかった]と記しました。ふたたび全集の自跋を見ましょう。

▼このような時勢の変化に、当の中国人はいやというほど痛い現実の教訓を受けながら、一向に判然とした自覚をもたなかった。否、単に中国ばかりではない。アジアの諸国民は、いずれも大同小異、あれよあれよと見る間に、気が付くと、何時の間にか自身が欧米強国の植民地、半植民地に陥っていたのだった。 『宮崎市定全集』18巻 p.441

ところが日本は[アヘン戦争の結果を考慮]したのです。この点について、全集の自跋で以下のように記しているのです。

▼その中にあって、ただひとり日本だけは、現実の事態を正しく把握する眼力を持っていた。そしてこの方向に国論を導いた功労者としては、数にしては多からざる一群の蘭学者たちを挙げるべきであった。アジア広しと雖も、日本の蘭学者の如き存在は、他国においては遂に類を見ざるものであった。 『宮崎市定全集』18巻 p.441

蘭学の成果、効用は明らかでした。オランダ語を学んでいたおかげで[現実の事態を正しく把握する眼力]が持てたのです。語学の効用は絶大だったといえます。

      

[3] 英語への転換に役立った蘭学

同時に、その後の歴史を見るならば、もはや蘭学ではないという認識もできたことでしょう。オランダはそれまで[日本貿易を独占する利益を享受することで満足していた](『宮崎市定全集』18巻 p.371)のです。しかし状況は変わります。

▼西欧における産業革命の成功はこの形勢を一変させた。風力を利用する帆船にかわって登場した蒸気船は、根拠地を離れて遠く万里の波濤をけって進む。日本近海にはアメリカ、イギリス、ロシア、フランス諸国の蒸気船が出没し、もはやオランダは日本貿易の独占を維持することができなくなった。 『宮崎市定全集』18巻 p.371

横浜に出かけた福沢諭吉が英語のあふれる様子をみてきます。『福翁自伝』「大阪を去って江戸に行く」の「英学発心」にある話です。[私が江戸に来たその翌年、すなわち安政六年、五国条約というものが発布になったので、横浜はまさしく開けたばかりのところ、ソコデ私は横浜に見物に行った]のでした(旺文社文庫版 p.124)。

1858年、日米修好通商条約が結ばれます。同じ年にオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んで「安政の五か国条約」となりました。福沢の言う「五国条約というものが発布にな」ったのです。

福沢が横浜に出かけたのは、その翌年1859年のことでした。横浜では[店の看板も読めなければ、ビンのはり紙もわからぬ。何を見ても私の知っている文字というものはない。英語だか仏語だか、いっこうわからない](p.124)という状況です。

[いままで数年の間、死にもの狂いになってオランダの書を読むことを勉強した、その勉強したものが、いまはなんにもならない、商売人の看板を見ても読むことができない、さりとはまことにつまらぬことをしたわいと、じつに落胆してしまった](p.125)のです。

▼いま世界に英語の普通に行なわれているということは、かねて知っている。何でも、あれは英語に違いない。いまわが国は条約を結んで開けかかっている、さすればこの後は英語が必要になるに違いない、洋学者として英語を知らなければ、とても何にも通ずることができないと、横浜から帰った翌日だ、一度は落胆したが同時にまた新たに志を発して、それから依頼は一切万事英語と覚悟を決めて、さてその英語を学ぶということについてどうしていいか取付端がない。 『福翁自伝』旺文社文庫版 p.125

ところが[実際を見れば蘭といい英というもひとしく横文にして、その文法もほぼ相同じければ、蘭書読む力はおのずから英書にも適用して決して無益でない](p.131)ということでした。英語の対応は、思ったよりも容易にできたのです。福沢ははやくも1860年には咸臨丸でアメリカに出かけていきます。

       

     

2 抽象概念の翻訳

[1] 理学上の用語と社会上の用語

学ぶべき外国語が変わりました。あるとき突然といってよい変化です。それでも福沢の例を見るように、日本人は対応することができました。ただし外国語を学ぶ場合、その言葉の概念を理解して使いこなすには、また一段の苦労が必要になります。まず問われるのは、どうやって新しい概念を日本語に翻訳したらよいのかということです。

司馬遼太郎が講演録「日本の文章を作った人々」で語っています。

▼幕末に福沢諭吉が咸臨丸に載ってアメリカに言っています。アメリカにつくと、アメリカ人は歓迎して、蒸気機関の工場などに連れていく。
これほど退屈なことはありませんでした。行った日本人たちは秀才ぞろいです。ワットの蒸気機関の原理もニュートンの法則も知っていたわけで、工場なんかどうでもよかった。 『司馬遼太郎全講演[2] 』 p.383

問題なのは、権利とか自由といった抽象概念の方です。司馬は、このあたりを講演でわかりやすい言い方で説明しています。

▼「権利」や「自由」に相当するオランダ語も英語も知っているけれども、意味がまだ分かりませんでした。日本語に翻訳できません。福沢は「権利」や「自由」を日本に広めたいと思っていますから、なんとか意味を知りたい。そこで蒸気の原理を説明している技師長をつかまえて、
「すみませんが、フリーダムとはどういう意味ですか」
と聞くわけです。 『司馬遼太郎全講演[2] 』 p.384

福沢が[「権利」や「自由」を日本に広めたいと思っ]たというのが大切でしょう。福沢は『福翁自伝』にも記しています。[理学上のことについてはすこしも肝をつぶすということはなかったが、一方の社会上のことについては全く方角がつかなかった](『福翁自伝』旺文社文庫版 p.147)ということです。

たとえば武器の使用法についてなら、すぐにわかったでしょう。しかし軍隊の組織をどう運営するかということになると、簡単にはわからなかったはずです。外国語を学ぶ目的は、圧倒的な力を持つ欧米勢力の出現に対応できるようになることですから、社会全体関する概念までをも含めて、わからなくては困ります。

当時の人々は、日本国がどういう方向に進んで行けばよいと思ったのでしょうか。この点、宮崎市定が『アジア史概説』で記しています。

▼明治初年に日本でとなえられた文明開化は、過去に対する訣別の意味が強かった。それなら従来の旧弊を捨てたうえ、かわりにどんな文明を迎えるかがつぎに明らかにされなければならなかったが、その答えは富国強兵であった。 『宮崎市定全集』18巻 p.411

国を豊かに富ませること、軍備を整備して強国になることが必要でした。[当時においてはきわめて自然な動きであった。日本を取り巻く列強のすべてが富国強兵主義に他ならなかったからである](『宮崎市定全集』18巻 p.411)

福沢の言葉で言えば[社会上のことについて]の欧米の概念、つまり近代的な諸概念を日本語に取り入れて、翻訳できるようにしなくてはなりません。翻訳をして、その理解を拡げていく必要があります。

     

      

[2] 漢字2字で作られた新しい漢語

日本人は、欧米の近代的な抽象概念を、どのような方法を使って日本語にしていったのでしょうか。この点について、『日本列島の言語』に所収の「日本語(歴史)」で亀井孝が記しています。

▼現代の日本語の語彙のうち、漢字で書かれる漢語の占める率ははなはだ大きい。このように、漢語が氾濫するようになったのは、明治時代になってからである。欧米との接触で、最新の科学、技術とともに、西欧の近代的諸概念が滔々として入ってきた。これらの諸概念は、ほとんどといっていいくらい、漢字2字で作られた新しい漢語に翻訳された。当時、日本の知識人は、漢文の素養があったから、和語によって受けとめず、漢語によって受け入れたのである。この日本製漢語は、東アジアの諸国の近代化に伴い、本家の中国にも逆輸入され、その他、朝鮮、ヴェトナムにも輸出された。これらの国々は、この日本製漢語によって、近代的諸概念を手に入れたのである。 『日本列島の言語』 p.151

漢字2文字の用語を明治時代になってから作られたということです。どうして漢字で作ったのか、この点についても亀井の説明は及んでいます。

▼これらの近代的諸概念は、すべて知的な概念であったから、和語でこれを伝えたとすると、和語特有の情的価値がまとわりつき、知的に取り扱うことに、少なからず障害をきたしたことになったであろう。もはやくり返すまでもなかろうが、漢語は、もともと外国起源のものであるため、情的には無色であった。従って、新しい知的な概念を漢語で受け入れても、そこには、妙な情的価値がつきまとうことがなかった。 『日本列島の言語』 p.151

日本人にとって漢語に情的な価値を見出すことは不可能に近かったのでしょう。情的に無色にしか思えなかったために、かえって的確に漢字で概念を表現できたと言えそうです。亀井は、[もし、漢語がなかったら、日本語の語彙は、横文字の語で充満したに違いない](p.151)と指摘しています。

▼漢語の場合は、長い時間をかけて徐々に順応したため、さほどの混乱も起らなかった、外国語との急激にして大量の接触は、日本語の本性を根底から揺り動かしたことと思われる。日本は、漢語をもって日本語を守ったのである。 『日本列島の言語』 p.151

蘭学の時代に、オランダ語を漢文訓読方式で読み下し、そのときもオランダ語を情的に無色なものとして受け入れていたのでしょう。漢文訓読方式の基礎がものを言いました。西欧の近代的諸概念を理解するときにも、漢文の素養がつかえたのです。

        

[3] 日本語を変えていく決意

亀井が[漢語をもって日本語を守った]と言うのは、まさにその通りだったでしょう。丸山真男は『翻訳と日本の近代』で、森有礼(もり・ありのり)の1873(明治6)年出版の「Education in Japan」の序文に言及しています。この本はニューヨークで出され、その序文で森は[英語を国語にしろという有名な議論を展開]したのでした(p.45)。

▼大和言葉というのは抽象語がないから、大和言葉に頼っていたのでは、とても西洋文明を日本のものにすることはできない。それで、この機会にいっそ英語を採用しろという議論です。 丸山真男『翻訳と日本の近代』 p.45

これに対して、馬場辰猪(ばば・たつい)という[自由民権運動の闘士]がイギリスに留学中に「Elementary Grammer of the Japanese Language, with Easy Progressive Exercises」を同じく1873年に、ロンドンで出版しました。問題はこの本の序文です。

馬場は、森の英語採用論に反駁して、[もし、日本で英語を採用したらどうなるか、上流階級と下層階級ではまったくく言葉が違ってしまうだろう、という意見を述べた][すごいんだ。インドの例をちゃんと引き合いに出して、上下とも、国民は同じ言葉をしゃべらなければいけない、と言っている](p.45)と、丸山は語ります。

馬場は[大和言葉に比べて英語の方が、論理的にものが言えて有利な点が多い]ことを認めてはいるのです(p.48)。しかし西洋文明の抽象語を日本語に翻訳していくべきだと考えていました。

馬場の考えを丸山が説明しています。[英語をモノにするのは大変だから、一般大衆とエリートと言葉が二つできて、重要なことがみんな英語で処理されることになれば、英語をしゃべるエリートだけが国事をやることになってしまって、大衆は国事から疎外されるだろう、と言]ったのだというのです(p.46)。

1888年に出た馬場の増補版、[明治二一年版の序文では、そのくだりを削除しちゃった。つまり森に対する反駁だからね。明治六年の段階では、まだどうなるか、わからなかったんですよ。混沌としているときでしたから。でも、明治二一年にはもう、英語を国語にするなどということはあり得ない。だから、そこを削除しちゃった]ということになります。

ドイツ参謀本部のメッケルが日本陸軍に招聘されたのが明治16(1883)年のことでした。来日したメッケルが「軍隊のやりとりの文章は簡潔で的確でなければならない。日本語はそういう文章なのか」と問うたと、司馬遼太郎が講演で語っていました(『司馬遼太郎全講演[2]』朝日文庫 p.388)。

日本語自体を変えていくという決意が、この頃、固まったということになります。さいわい西洋文明の抽象語を漢語で翻訳することが可能でした。富国強兵に必要不可欠な西欧の近代的諸概念が日本語になっていきます。

ここから日本語が大きく変わることになりました。こうした過程は、英語にもあったようです。それが英文法の成立につながったということでした。日本語の場合はどうか、このあたりを次に見ていきたいと思います。