■現代の文章:日本語文法講義 第3回

第2章 文法は何のためのものか:北原保雄 『日本語の文法』 第一章

      

2-1 文法とは

北原保雄『日本語の文法』の第一章は「文法について」です。「文法とは」という見出しがありますから、文法の定義が書かれているかと思ったのですが、はっきりとは書かれていません。ただ、気持ちは伝わってきます。

こうあったらという文法への期待を、北原はこんな風に記しました。[文法の勉強をして、なるほど日本語にもこんなに素晴らしいきまりがあったのかと驚き、感動し、そして日本語の文法に興味をもつようになること]。しかし今はそうなっていません。

本来、[もっと楽しいもの][もっと日本語について考えさせるもの][日本語の文法は、日本語を使って生活している日本人にとって、もっと身近で有用なものであるはずである]と言うのです。そして清水幾太郎の『論文の書き方』に言及しています。

清水幾太郎は『論文の書き方』で、フランスの小学校でフランス語の文章の文法的分析を教えているのを紹介していました。日本でも文法教育があったが、それは[いわばお義理のようなものであった。苦行であった]と清水は書いています。

日本語文法の講義は、[文法は、文章を論理的に構成するための基礎的ルールを、したがって、論理的思惟の基礎的ルールを教えるものではなかった]のです。清水は、文法が役立たなくてはいけないという前提にたって、文法がどんなルールであるかを示しました。

北原も、文法とは[文章を論理的に構成するための基礎的ルール、論理的思惟の基礎的ルール]であることに同意しています。それを言い換えて、[文章の理解や表現のための基礎的ルール]と記しているのが、おそらく北原の文法の定義といえそうです。

このままの言い方でもいいと思います。ただ、もうすこし平たく言った方がわかりやすいかもしれません。文法とは「文章を読み書きするときの基礎になるルール」ということだろうと思います。したがって、読み書きをするときに、役に立たなくてはいけません。

読み書きに役立つということは、どんな条件になるでしょうか。北原は[文法(論)は規範文法と記述文法とに分けることができる。文法(論)は、それが何のためのものであるかということによっても、違ったものになってくるのである]と書いています。

ここで大切なのは、[何のためのものであるか]ということになるでしょう。いまわれわれが、「何のためのもの」かと問われたなら、多くの人は、「読み書きに役立つためのもの」という答えになるでしょう。読み書きに役立たなくては意味がないのです。

読み書きに役立つルールでなかったら、たとえば若手のリーダーたちが文法を学ぼうとするときに、学ぶ価値が見いだせないはずです。文法を学べば、正確に読める、簡潔で的確に書けるということならば、学ぶ必要性を感じることができるでしょう。

北原は、文法を規範文法と記述文法とに分けて、両者を比較しています。こうした文法についての分類は、英文法でも見られるものです。以下、北原が、両者をどう評価しているのかを見ながら、文法のあるべき姿を確認していきたいと思います。

    

2-2 規範文法と記述文法

規範文法とは[実際に言葉を用いる場合に、それを正しく用いるために作られた文法]であるというのが北原の説明です。[文法的にはこういうのが正しいなどというときの文法は、やはり規範文法のこと]になります。学校文法、実用文法とも呼ばれるものです。

こうした規範文法に対して、北原は[このようにあるべきだという規範は何を基準にして決められるのであろうか]という問題提起をしています。たとえば「みたく」という言い方をどう扱うべきでしょうか。こうした具体的な事例で論を進めていきます。

北原によると、[時代や方処が違えば、規範は違ってくる]ということです。たしかに「いつ・どこで」であるかによって規範は変わるでしょう。「いつ・どこで」以外にも、たとえば「誰が誰に対して」の言葉であるかによっても、規範は変わるでしょう。

そうなると、[これが正しいとか、これは誤りであるというようなことを言うのではなく、ありのままに記述する]文法も考えられはずです。[言葉をありのままに、このようであると記述する文法(論)が出てくるのである。これが記述文法である]とのこと。

北原の説明でポイントとなるのは、3つあります。(1)時代・場所によって、規範に違いが生じるということ、だから、(2)正しさを基準にすべきではないということ、(3)現に通用しているものをありのままに記述すべきであるということ。

(1)はその通りです。しかし、(2)と(3)は矛盾しかねません。「正しさ」というものが絶対基準にならないのは確かです。同時に「現に通用している」「ありのまま」かどうかも絶対基準にはなりません。両者とも、ある種の基準でしかないということです。

「正しさ」を基準にすることを避けようとする傾向は、研究者に強いように思います。それに代わる概念として、「ありのまま」で判断しようとするのは、やはり無理があります。当然のことですが、北原も「ありのまま」の判断基準を示しません。

そうすると、「みたく」をどう扱うべきなのでしょうか。北原は言います。[「みたく」が現に通用しているのであれば、「みたいに」が本来的には正しい形であるとしても、「みたく」は「みたい」の連用形として記述されるのである]ということです。

まさに、[現に通用しているのであれば]という仮定を言うにとどまります。現に通用しているのでしょうか。これは簡単には、わかりません。では、正しいのでしょうか。ここに条件をつければ、正しいか、現実に通用するかどうかの判断は可能です。

ビジネス文書で記述したり、学術論文で記述する場合に、「みたく」が通用するかどうかは明らかになります。1981年時点であれ、21世紀になってであれ、ビジネス文書や学術論文を書くときに、「みたく」は通用しない、正しくない、適切ではない言い方です。

北原はさらに言います。[戦後においては、口語は話すだけでなく書くことばでもある。そういうことで、口語文法は、書きことばの文法と話しことばの文法の両方を合わせ含む曖昧なものとなった]。それでは、北原の立場はどうなのでしょうか。

文法について北原は[文章の理解や表現のための基礎的ルール]と言っていました。それならば、書き言葉だけを対象に文法を構築していけばよかったのです。第一章最後に「本書の立場」が書かれていますが、文章のみを対象とするのか、よくわかりません。

いま文法を必要とする人たちの関心は、文章にむかっています。司馬遼太郎の言う現代の「文章日本語」についての基礎的ルールが必要とされているのです。以下、ビジネスや学術的な文章を対象にすることを前提にして、北原の本から学んでいきたいと思います。

        

2-3 英文法の場合

北原の立場は、専門家として特殊ではないはずです。現在、学者が規範本文法の立場で学術的な文法書を著すことなど、考えにくいでしょう。その結果、多くの読者が望んでいるものとの齟齬が生じて、定番の基本書が成立しなくなるのではないかと思います。

それでは英文法の場合、どうだったのでしょうか。『本物の英語力』で鳥飼玖美子は、分かりやすい説明をしています。[ふつう私たちが「英文法」と言っているものは、例えてみれば、スポーツのルールみたいなものです]とのことです。

▼テニスであれ野球であれ、スポーツには必ずルールがあり、選手はそのルールに従って試合をします。スポーツをやりたいと思ったら、ルールを学んで技能を磨くしかありません。英語も同じです。英語を使いたいと思ったら、ルール(文法という規則)を学び、スキル(聞くこと、読むこと、書くこと、話すことの4技能)を磨くしかありません。 講談社現代新書 p.60: 鳥飼玖美子『本物の英語力』

ルールなしにスキルを磨こうとしても、無理があるのです。文法規則に例外があったとしても、文法を学ぶ価値があります。なぜならば、文法規則を[知らないとセンテンスを組み立てられないし、センテンスをつくれないとまともな会話ができないからです]。

鳥飼はスキルとして4技能をあげていますが、英文法の形成の過程では、4技能のうち読むことと書くことが中心になっていたようです。こうした英文法の形成について、渡部昇一が『英文法を知ってますか』のまえがきで、簡潔に一筆書きしています。

▼あなたは英文法のことを知っておられるだろうか。
それはイギリス人の英語に対する劣等感という土壌の中に胚胎し、
アカデミー・フランセーズの刺戟によって促進され、
十八世紀の半ば頃に「規範」の観念が確立し、
十八世紀の末にアングロ・サクソン法的な発想に従い「慣習」と「理性」の妥協によってほぼ確立し、
国家や政府の権力によらず商業ベースで世界的規模となり、
二十世紀後半から新言語学の批判を受けながらも、立派な文章を「読み書き」できるようにしてくれる唯一の王道である。 文春新書 p.3: 渡部昇一『英文法を知ってますか』

多くの人が、文法を学ぶことによって[立派な文章を「読み書き」できるように]なりたいと思っているはずです。英文法の形成の仕方はどうだったのか、渡部の本から確認してみたいと思います。規範文法と記述文法については、どうでしょうか。

▼二十世紀の半ばころに盛んであった構造言語学の学者たちは、規制の文法を、英語の実際の観察に基づかない規則を押しつけるもの、つまり記述的(descriptive)でなく規範的(prescriptive,normative)と言って批判したが、例外的に構造言語学者たちに評価された十八世紀の文法家はプリーストリィであった。 文春新書 p.191: 渡部昇一『英文法を知ってますか』

1761年のプリーストリィの文法が評価されたのは、[自然科学が大自然の文法(grammar of Nature)である如く、文法もまず観察に基づいて資料を蒐集し、そのデータからその“現実の構造(grammar of Nature)”を示すべきだ]という主張でした。

こうしたプリーストリィの考えは、ありのままを文法にすべしという記述文法の考え方であるといえます。北原も同じ立場でしょう。では、その結果として生まれたプリーストリィの文法書はどう受け入れられたでしょうか。渡部は以下のように記しています。

▼イギリス人は先ず国語の「規範」を求めていたのに、プリーストリィは「観察」することを勧めたのだ。これはパンを求める者たちに石を与えるようなものだったと言えよう。かくてプリーストリィの英文法書は、学説史的に興味深くても売れ行きはよくなかった。 文春新書 p.192: 渡部昇一『英文法を知ってますか』

日本語の文法についても、なんだか似たところがあるように思います。読み書きに関心のあるビジネスリーダーたちに、必要とする文法とは違う文法が与えられてきた感じがするのです。もう少し、英文法が大成していった過程を見ていきたいと思います。

(2021年8月13日)