■三上章の日本語文法における影響:通説的見解を作った人

    

1 桑原武夫の文章から三上章を知る

高校の図書館に桑原武夫全集がありました。朝日新聞社刊の全集です。まだ桑原武夫はご健在で、ときどき原稿を書いたり、テレビに出たりしていました。三上章の文法についても、高校時代に、この全集で知ったのです。三上の本も、別の図書館にありました。

たぶん三上の評価は、まだそれほど高くなかったはずです。いまのように通説的な見解が三上の影響下に形成されていくことまでは、三上自身も考えていなかったでしょう。私自身、三上の本のことは忘れてしまいました。たぶん読んだのは『象は鼻が長い』です。

「象は鼻が長い」という言葉だけはたしかに記憶に残りました。それ以外、三上の本から、何か影響を受けたのかと言えば、何もなかったという気がします。渡部昇一の『秘術としての文法』も読んでいましたから、何だか違うなあ…という感じはしたはずです。

     

2 高校時代に『現代語法序説』を読んでいたらしい

最近、ひさしぶりに三上章の『現代語法序説』を読みました。扉に、桑原武夫の「三上章を惜しむ」の一節が掲げられています。この本を読んでみると、三上の最初の本に、現在の日本語文法における、ほとんどの通説的な見解が記されているのだと、感じました。

品詞分けの章を見ても、[形容詞を連体形語尾によって区別し]て[イ活用の形容詞][ナ活用の形容詞と呼び分ければ十分](P.43)とあります。いまや「イ形容詞」「ナ形容詞」という言い方がかなりの範囲で使われるようになりました。すごいものです。

三上の示した大枠は、何ら変わっていないではないか…という気がします。三上章が天才的だったからでしょう。同時に、不思議な感覚に襲われました。まったく変な発想だと感じたあの頃が蘇ってきたのです。高校時代に、この本をかじった可能性があります。

一言で言えば、主語を自分で定義して、その定義に合致する主語が日本語にはないから、日本語文法から主語を抹殺せよと主張しているように感じたのです。今も、そういう感じがしています。同時に、文法は面倒だ、こりゃあ大変だと思ったに違いないのです。

     

3 違和感のある発想

三上は[語幹にあたる部分に接尾辞「サ」がつけられるもの]を[形容詞とする]と言います。「美しさ・高さ・静かさ・正直さ」など、たしかにそんな気もしてくるのです。しかし「幸せ・幸福」を「幸せさ・幸福さ」と言うのは違和感があります。

「黄色ナ」はナ活用の形容詞として三上があげたものですが、「黄色さ」も妙でしょう。その後に、「イナゴ(トイフ虫)ハ有害ダ」「イナゴ(トイフ虫)ハ害虫ダ」を並べて、[形式が似ているばかりでなく、内容もほとんど同じである](P.43)と記しています。

「有害」は形容詞、「害虫」は名詞だが、両者の差は小さくて同じ仲間だというのです。しかし「有害」は「ダ接続」が可能な体言でしょう。形容詞ならば、「アゲハ蝶は美しい」のように、「アゲハ蝶はきれいだ」と比べて、内容は類似でも形式は違ってきます。

「きれい・だ」「美しい・だ」と、「だ」を接続すれば、活用の有無が判別できます。「きれい」は体言になります。ナ形容詞などという品詞があって、活用形があるなどというのは幻想です。あえて言えば「ナ名詞」でしょう。どうも発想が違うのです。

       

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