■『論語』の入門書で最高の本は何か:陳舜臣『論語抄』と桑原武夫『論語』

     

1 二冊の名著

桑原武夫の『論語』は名著です。前回触れました。この本と陳舜臣『論語抄』があれば、『論語』の入門書はいらないかもしれません。はしがきで陳は[『論語』をぜんぶ読むことは、ふつうの人には無理ですし、その必要もありません](P.11)と書いています。

▼漢字圏の人たちは、いくら発音が違っても、千年前、二千年前の文章の意味がわかるのです。ただ古代は竹簡や木簡に墨書したり刻んだりするので、面倒ですからできるだけ簡潔に記し、わかり切った表現は省略しようとします。けれど二千年前にわかり切っていたことは、今ではわからなくなっていることもあるのです。 P.23 『論語抄』

約五百章からなる『論語』をきちんと読むのは簡単ではありません。さらに桑原武夫は[孫弟子たちが伝承を踏まえて編集したものである。そこに孔子の発言でないことばが孔子のものとして混入していることはありうる](『論語』P.244)と記していました。

そうなると全部を読むよりも、エッセンスになるような章を取り出して、丁寧に読んだ方がかえって『論語』がわかる可能性もあります。実際、『本当は危ない「論語」』で加藤徹はこうした事情を根拠に、『論語抄』を勧めているのです。

      

2 興味深い解釈の相違

『論語抄』の[執筆中つねに身近においたのは、劉宝楠(リュウホウナン 1791-1855)の『論語正義』]であり、また中学時代の恩師が宮崎市定の教え子だったので[勝手に孫弟子と名乗り]、宮崎の『現代語訳 論語』の訓読みに[ほぼ拠]ったとのことです(P.12)。

一方の桑原『論語』の場合、吉川幸次郎と貝塚茂樹の注解を[併読していった](P.234)といい、さらに[徳川日本の生んだ二人の偉大な儒学研究家、伊藤仁斎と荻生徂徠の教えを乞い][仁斎と徂徠にたよる]ことにしたとのことでした(PP..255-256)。

二つの本が同じ論語を扱いながら、若干のニュアンスの違いを見せているのは、読む側の個人的なキャラクターの違いと共に、基礎とした解釈の違いによるかもしれません。両書に共通する章を読み比べてみるのは興味深いことでしょう。約50の章が重なっています。

      

3 論語入門のために一番よい方法

たとえば郷党第十「厩焼けたり。子、朝より退いて曰く、人を数作るか、と。馬を問わず。」の章について、[孔子の人間至上主義をたたえていると解してよい]と『論語抄』では解釈しています。しかし桑原本では面白いと言いながら、異議を表明しました。

憲問第十四35で、名馬の徳をほめているが[馬にも道徳があるというのか。もしそうなら、道徳をもちうる馬が焼け死んでも平気だ、とするのは矛盾ではなかろうか](PP..231-232)と言うのです。『論語抄』でも[苦情が出そうです](P.113)と記していました。

陳舜臣は少数説を紹介しています。「傷人乎不問馬」を「傷人乎不。問馬。」と区切って、「人を傷つけしや不(イナ)や。馬を問う。」と読み、[人が怪我したかどうかと言ったあと、「馬を問う」]と解釈することも可能だというのです。こちらに惹かれます。

この章に限りません。この二つの本があれば、重なった章をそれぞれ読みながら、自分で考えていくことが出来ます。一冊読むよりも重複部分のみ二冊分読むほうが理解が深まりますし、何より分量も少ないのです。論語入門のために一番よい方法だろうと思います。

     

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