■桑原武夫『論語』の姿勢:参考とすべき解釈の指針

    

1 全体構想を作らないブログの形式

いま日本語の文法について、継続的に思いついたままを書いています。ブログを書いていたときのように、感じのまま特別に全体構想を作らずに、一旦、自由に書いた方がよいかなという気がしてきました。それでブログを書くような形式で書いています。

全体の構成をしてからになると、思いつきが排除されがちです。書いてからもう一度構成しなおせばいいやということでした。基礎になる概念も、もう一度見直したほうがいいだろうと思います。日本語の文法書を読むと、定義は一見立派になされているのです。

定義された概念を例文に適応して説明したところを読むと、たいていの場合、おかしいなあと感じます。自然に読んだり書いたりするときのニュアンスと違うのです。文法は何のためにあるのでしょうか。適切に読み書きする足しにならなくては意味がありません。

      

2 桑原武夫の解釈基準

桑原武夫の『論語』は、たんに論語の解釈を知るためだけでなくて、桑原の考え方を知るためにも役に立ちます。それが魅力です。例えば、[孔子は超越的な考の原理を上から押しつけるのではなく、人を見て法を説こうとしている](P.42)とあります。

だから[相手がいかなるパーソナリティで、またいかなる状況に置いてあったかを知らなければ十全にとらえられない]というのも[もっともな理屈である]。[しかしそれは理屈であって、古典とは歴史を超えて解しうるはずのものである]と反転します。

つまり[歴史的知識を援用しつつも、言葉に現れた人間の真実を求めるよう努力せねばなるまい](P.42)といい、そのときの解釈の基準として[それが最も自然だから](P.43)と言うのです。一見、論理的でないように見えます。どういう考えなのでしょうか。

▼「考を問う」という言葉があるが、これは今日わたしたちの用語における定義を求めたものではなく、孔子もまた定義しようとしているのではない。定義という考え方が生まれるのは科学精神を前提とする。ところが、この時代にはもちろん、また近代まで、中国思想にはそうしたものはなかった。そのことは必ずしも弱点ないしは欠点であることを意味しない。抽象的な単一原理の追究よりも経験的な多数の範例の積み重ねによって、世界をとらえようとするのが中国思想の特色なのである。 P.41 ちくま文庫版『論語』

      

3 漢文の特徴と思想の構造

日本語文法の本でも、例文とその解説を見ていけば、基礎概念の捉え方、定義の妥当性が見えてきます。漢文の影響のある日本語の場合、漢文と欧米語の中間的な性格があるのかもしれません。したがって、漢文の基礎的構造を意識する必要があります。

▼西洋の古典には、その語られた内容の解釈については異説がありうるが、文章そのものについてこのように主客相反するようなことなったよみの許されることはないであろう。ギリシャ哲学ないしキリスト教にくらべて儒教が寛容度が高いことと、この中国語の特異性とは関係があるかもしれない。(日本の古典はこのようなよみの多様性をもつであろうか。) P.43 ちくま文庫版『論語』

論理性が前面に出て、定義をして演繹的に論証していくばかりが適切とは言えません。具体的で適切な事例をもとに全体を構想していくことも大切でしょう。定義を問いながら、その具体例への解説に注目するのも、桑原の主張に賛同しているからです。

フランス文学者で近代主義者といわれた桑原武夫でしたが、世界的な東洋史学者であった桑原隲蔵(ジツゾウ)を父に持ち、「孝道」の文献として『志那の孝道殊に法律上より観たる志那の孝道』をあげています(P.27)。交友関係も含めて、ちょっと格の違う学者でした。

      

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