■司馬遼太郎の明治陸軍の一筆書き:フランス式とドイツ式

      

1 『坂の上の雲』六 あとがき

司馬遼太郎の文章を読み返しています。最近、簡潔な一筆書きをする場合に、どういう風にするのだろうかと、ときどき気になって、かつて読んだものを引っ張り出すことが多くなりました。私は『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅』第4巻を大切にしています。

この本には、『坂の上の雲』の「あとがき」が6つ所収され、そのあと、明治の人々について司馬が語った文章が並べられ、最後が「ゴッホの天才性」になっています。他の巻も持っていたはずですが、第4巻だけが引っ張り出されてきました。相性もありますね。

ことに「『坂の上の雲』六 あとがき」はこの小説の最後の「あとがき」のためか、視点が広く、この「あとがき」だけで十分満足するほどの出来栄えです。もしかしたら、簡単に書けてしまったのかもしれませんが、何度も読む価値のある文章だと思っています。

      

2 フランス式からドイツ式への転換

司馬はドイツ滞在中に「アンドレアス・メケル」という名刺をもったドイツ人の訪問を受けました。「ヤコブは私にとって大叔父にあたります」とその人は言ったそうです。[ヤコブ・メッケルは明治十八年に日本に来て、数年間滞在した」と司馬は記しています。

これが日本の陸軍の転換点になったようです。[日本の陸軍は明治三年に、「海軍は英式、陸軍は仏式に依る」と定められて以来]、[編成から軍服にいたるまでフランス式にし、極東においてフランスの出店が出現したような感があった]とのこと。

しかし1870(明治三)年に普仏戦争でフランスが負けました。[この普仏戦争でのドイツの勝利は、軍制と戦術の勝利であるといわれた。その方式と思考法を日本に導入するためにメッケルを招聘したのである]。[当時メッケルは老モルトケの愛弟子]でした。

▼ドイツの参謀本部自体がかれを必要としていたため遠い極東の国へかれを送ることが困難だったし、メッケル自身も気乗り薄だった。しかしモルトケがそれを決断し、メッケルを送った。メッケルの戦術が日露戦争の満州における野戦にどれほどの影響を与えたか測りしれない。 p.56 『司馬遼太郎 歴史のなかの邂逅』第4巻

      

3 ドイツ的思考法とフランス的思考法の衝突

ドイツの「軍制と戦術」は、フランスの戦術とどう違ったのでしょうか。[フランス戦術はナポレオンが創造したものだが、それを実施するについてはナポレオンという天才によってのみその玄妙さを出し得るものだと言われていた]と司馬は指摘しています。

天才が去った後、[その戦術が形骸としてフランスに残]り、[ひどく算術的で、ある面では学理的であり、凡庸な者がやればほぼ失敗すると言われてい]たのです。ロシアは[フランス式の戦術の影響が濃かった]のに対し、ドイツ式で日本は戦ったのでした。

ドイツ戦術は[実際的で観念性がほとんどなく、その原理ややり方を理解してしまえば凡庸な人間でも一定の効果をあげうるというものであった]のです。司馬は[ドイツ的思考法とフランス的思考法の衝突であったと]言えるかもしれないと記しています。

これほど明確な対比ができるかどうか、それはわかりません。司馬自身、[四捨五入すれば]という言い方で、両者の大枠を示しています。これを読んだ直後、たまたまある業界最大手の営業マニュアルを見たのです。ああ「フランス式」と思いました。

★この項、つづきます。

      

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