■理解されない知的生産の技術の思想:『梅棹忠夫のことば』解説から

    

1 梅棹流の発想に注意

梅棹忠夫の考えはかなりラディカルなところがあります。たとえば日本語をローマ字化したほうがいいという考えでした。漢字がよくないという価値観が基礎にあります。ローマ字化した日本語なら外国人でも使いやすい言葉になる、漢字が邪魔だというのです。

しかしいったん漢字を覚えてしまえば、漢字かな混じりの文の方が早く正確に読めますから、漢字なしの日本語は、おそらく実現しないでしょう。変換を梅棹は嫌っていましたが変換効率も良くなってきてひどいストレスを感じません。梅棹の主張は無理でした。

知的生産に関しての考えも、梅棹流の合理主義と価値観がありますから、簡単にまねできません。カード方式についての考えも、よほど注意して理解しないと、ボタンのかけ違いになります。『梅棹忠夫のことば』の解説でも、おかしいなと感じる点があるのです。

     

2 知的生産用の情報はシェアできない

[カードは、わすれるためにつけるものである]から[自分だけにわかるつもりのメモふうのかきかたは、しないほうがよい](p.30)と梅棹は言います。大切な指摘です。解説に[だれが読んでもわかるようにメモしておこう]とあります。メモではダメなのです。

梅棹は[自分というものは、時間がたてば他人とおなじだ]と考えます。だから「いつ・どこで、誰が・何を・どうしたのか」といった点を明確に記述すべきだということです。解説にある[他人も使える。情報がシェアーされる道が開ける]などありえません。

梅棹は視力を失いましたが、カードやファイルの整理がきちんとできていたため、あのあたりにこんなカードがあるはずだと秘書に指定ができました。解説には[本人の記憶や、秘書の有能さは、この際あまり重要ではない]とあります。全くの間違いです。

本人の記憶がなくては利用などできません。しかし解説者の小長谷有紀は書きます。[秘書が有能でなくても、記憶力が衰えても、情報は取り出せること、それがカード・システムの真髄である]。記憶なしに、どうやって必要なカードを選択するのでしょうか。

     

3 ひらめいた個人の記憶が前提

梅棹のカードが膨大に残されましたが、それを使って梅棹の後を継ぐ人はいませんし、集めた資料も、梅棹ほどには活かせません。知的生産は個人的な活動が基本です。個人の蔵書と図書館の資料は、本の選択も配列の仕方も違います。そうでなくてはなりません。

解説の[現在なら、さしずめ、新聞でも何でもPDFにし、キーワードを複数つけておいて、それらを検索することで、的を絞り、数を減らし、目的のものを得る、という作業もできるだろう]という考えは、知的生産とは縁のない人の発想だと感じさせられます。

ひらめきをカードに書く、発見を書くと梅棹は書いていました。利用の仕方も、ロジカルに絞り込んで必要な情報を選択するのではありません。ぱっと思いついて、これだと選ぶのです。こんなのがあったはずたという記憶が前提になります。他人には無理な話です。

メモの内容を整理してカードに記述する手間をかけるのも、詳細を覚えていなくても、あとで使えるだけの記憶が残るようにという意味があります。ノートでなく小さなB6カードなのも、不要なものをそぎ落として簡潔にエッセンスを記述するのによいからです。

     

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